Bulletin Board

伝道掲示板

本校では、正面玄関の横に伝道掲示板を設置しています。
書道クラブ部員の協力のもと、月替わりでいろいろな言葉を提示しています。
ホームルームなどでとりあげ、自分の生き方や心を見つめる機会となっています。

10月の言葉

私にとどけられている
聲に氣づく
(同朋新聞741号より)

土居 日向子 書

2019年10月11日

第17回

運動会が終わり、体育の授業では、強歩大会に向けての練習が始まりました。また、これから生徒会役員の選挙や、報恩講といった行事も行われます。そんな中で感じることの一つひとつを大切にして下さい。
 
ある先生の体験談を紹介しましょう。
わが子がまだ一歳ほどの赤ちゃんのとき、下痢がなかなか止まらず、医者で薬をもらい、指示どおりに一生懸命看病するのですが、いっこうに治りません。そんなとき、保健師をしている、生徒のお母さんから、くだもののびわの葉っぱをおへその上に一枚貼り付けておくという治療法を教わりました。そこで、庭にびわの木がある近所の家からびわの葉っぱを数枚分けてもらい、葉っぱの周囲のとがっている部分を切り取って楕円形にして、早く治ってくれると良いがと念じながら、赤ちゃんのおへその上に貼り付けてあげました。すると、驚くことに、翌朝、赤ちゃんの下痢がぴたっと止まり、元気になっていたのです。
そんな経験をしたとき、ああ自分の親も、こうして自分のことを心配し、いろんな思いや願いをかけて育ててくれていたんだと、そう思わずにはいられなかったということです。
このように、親の思いというものは、何にでも込められています。親の思いの中で、私たちは育ってきたのです。

詩人の坂村真民(さかむらしんみん)さんも、同様な話を書物に書いています。
下痢をして、医者の薬や注射ではどうしても治らなかったが、お母さんが都会の水に当たらないようにと送ってくれた、梅で作った梅エキスを飲んで、すぐに下痢が治ったことがあった。その梅エキスは二十年も前に送ってもらったもので、少しずつ使っていたので長年使ったが、親の恩というものは二十年も経ちながら、まだこの梅の中にこもっている。なんともありがたいことだなあ。あんなに色々手を尽くしたのに治らなかったのが、不思議に治ったと述べています。

ふだんは親の恩を感じることなく生活していますが、何かのきっかけで、ふと感じることがみなさんにもきっとあることでしょう。それは、とても温かい優しさを感じるときでもあります。有り難いことですね。

2019年10月4日

第16回

今週は運動会が行われました。天気にも恵まれ、暑い中、白熱した運動会となりましたね。

開会式の時、校長先生からもお話がありましたが、今回の運動会は「繋ぐ~三色の和~」をテーマに開催されました。皆さんはどんな場面で「繋がり」を感じましたか。バトンが次の人へと渡った瞬間。ダンスや民謡で学年がひとつになった瞬間。大きな声を出して応援し、組がひとつになった瞬間。三色の組を超えて、お互いの頑張りを称え合った瞬間。運動会という行事を通し、さまざまな形で「繋がり」を感じる瞬間があったことと思います。

親鸞聖人が大切にされていた言葉の中に「同朋」という言葉があります。「念仏の心の世界に生きる仲間」という意味になりますが、煩悩に左右され、自分の都合によって勝ち負けにこだわる私たちに、「仏様の前では勝ち負けなど関係ない。優劣や勝ち負けを超えたところに、人と人との『繋がり』の尊さがある。」と、親鸞聖人は言われています。

各組に分かれ、勝利を目指して競い合った私たちですが、勝ち負けや順位だけにとらわれることなく、一緒に笑い、泣き、気持ちを分かち合い、声をかけ合う生徒の姿がありました。勝った人も負けた人も関係なく、手を取り合い、お互いを称え合う姿がありました。その姿は、飯田女子高校の生徒の一人として「仲間」を思いやる姿であり、運動会は、同じ飯田女子高校で生活する者として、一つひとつの「繋がり」を深めることのできた時間だったのではないでしょうか。

目の前にある事に全力で取り組む。今、自分の目の前にいる人を大切にする。運動会に限らず、普段の生活の中にも、自分と周りとの「繋がり」を深めるきっかけは、たくさんあるように思います。私たちは多くの「繋がり」によって支えられ、生かされています。そしてまた、自分が周りに支えられ育てられているように、自分の存在も誰かの支えになり、いのちを繋ぐ「はたらきかけ」となっているのです。

2019年9月20日

第14回

先週、一年生の東本願寺研修が行われました。研修に行く前、有馬校長先生から一年生にむけて、「東本願寺では普段の生活とはまた違った時間が流れている。聖空間(ひじりくうかん)、聖時間(ひじりじかん)を体験してきてほしい。」とお話をいただきました。一年生にとって研修は、どのような時間だったでしょうか。

記念講演では、講師の越本達了先生から様々なお話をお聞きしました。
 「失敗なんて当たり前。人間は失敗からも学ぶことができる、豊かな存在である。そして人間は生まれた瞬間から、『独自性』『唯一性』『有終性』『無常性』という四つの約束を必ず持っている。その中で私たちは、いつ終わってもいい『いのち』を生きているだろうか。本当の意味で一日を大切にするってどういうことなのだろうか。この『問い』を持つことが大切であり、『問い』を学び続けられたのが親鸞聖人である。『結論』を出すことに焦らず、『問い』を持って生きていこう。」
このような「願い」を、越本先生は私たちにかけてくれました。

越本先生のお話を通して普段の自分を見つめてみると、結果だけにこだわり、失敗しないために努力する私の姿がありました。誰にも代わってもらうことのできない尊い人生を生きているとわかっているはずなのに、周りと自分を比較し、自分勝手な価値観で優劣をつけている私がいました。一日の価値を忘れ、今この瞬間を大切にできていない私、いつ終わりが来るかわからない、けれど必ず終わりが来る「いのち」を生きている自分を見失っている私など、本当の自分の姿は愚かで、いつも迷いの中にいるように思いました。しかし、愚かな自分がいるからこそ、越本先生のお話が「自分のこと」として心に響く。迷いがあるからこそ、聞こえてくる声がある。東本願寺での聖空間、聖時間は、普段の生活ではなかなか見えてこない、自分の姿との「出遇い」だったと感じています。

全校の皆さんが経験した東本願寺研修は、その時過ごした二日間だけが学びではありません。研修で出遇った愚かな自分を抱えたまま、これからも自分と向き合っていく。この歩みこそが学びを深め、「『問い』を持って生きる」ということなのではないでしょうか。

2019年9月13日

第13回

一年生のみなさんは、東本願寺での研修を終え、心に残る大切なお土産を持ち帰られたことでしょう。仏さまのはたらきを受けている私であることを、二年生も三年生も今一度思い出せると良いですね。
 
以前、本校の報恩講に講師として来校されたことのある、真城義麿(ましろよしまろ)先生が、こんなことを述べておられます。

日ごろ私たちは、「私は」「私が」と自分を主語にして生活しています。「私は」と言ったとたんに、「〇〇さんよりも劣っている」、「私は〇〇ができなくなった」「私は〇〇を失った」など、他人や過去と比べて考えてしまい、不足や不満や不快が心の表面に出てしまいがちです。
しかし、主語を自分から自分以外の人に変えると、矢印の方向が転換して、「私のために」「私のことを」というところに意識が行くのです。そうすると、あらためて気づかされることがたくさん出てきます。
そして、生まれてこの方、私の存在をじっと支え、包み支援してくださった様々なはたらきに思いがいくようになります。「私のことを」生んでくださり、いつも案じてくださり、「私のために」食べさせ、着せ、遊び、勉強を教え、尊いものをいろいろとしてくださったことが、有り難く感謝せずにはいられなくなります。
さらにその思いを進めれば、照らしてくれる太陽、恵みの雨、吹く風、大地、それらから、途切れることなくいただき続けてきていることに気づかされるのです。

仏さまの智慧のはたらきを受けている私たちは、そのはたらきのおかげで、本当のことに目が向きますが、本当のことに目が向くと、「私は」「私が」という思いにとらわれて、いつも自分の都合優先で物事を考えている自分であることに気づきます。そのことを通して、そんな私なのに、いつも周りは私を育てよう育てようとしてくれていることが見えてきます。仏さまの慈悲のはたらきを受けているからです。

私に降りかかるどんなことも、私を育てようとしてくれている。喜びの日は喜びに、悲しみの日は悲しみに育ててもらっている。どんな時も、どんな人にも、その出遇いを通して育ててもらっている。有り難いことです。

2019年7月19日

第11回

今朝は、教育者として有名な東井義雄さんの詩を紹介します。

明日がある あさってがある
と考えている間は なんにもありはしない
かんじんの 「いま」がないんだから

きょうが 本番
「いま」こそが 本番

今日も学校生活の新たな一日がスタートしました。今日もいろいろなことにめぐりあうことでしょう。しかし、どういうことにめぐりあおうとも、この飯田女子高校が私のために存在し、先生や友だちに私がお世話になっているという事実は変わりません。
今日は今日の先生に、今日の友だちに、そして、今日出会うすべての人たちにかかわることで、嬉しい思いをしたり、悲しい思いをしたり、心動かされ、考えさせられ、悩んだり、苦しんだり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、喜んだり、幸せを感じたりします。
そんな今日という日は、私にとって尊い一日であるはずなのに、明日が当たり前のようにやってくると思っているから、今日という日の尊さをつい忘れてしまう私たちです。
今やらなくったって、後でやればいい。今覚えなくったって、家に帰ってからゆっくり覚えればいい。後回し後回しにして、今を適当に、楽なように楽なようにと過ごしてしまう私たちです。そして、今日が終わり、一週間が終わり、一ヶ月が終わってしまう。

まだまだテストは先のことだから、今日、授業中に真剣に覚えなくったっていいじゃないか。まだまだ試合は先のことだから、まだまだ日があるんだから‥‥。そういう気持ちに振り回されて

 きょうが 本番
 「いま」こそが 本番

といえるような、生き生きとした時間を過ごせないでいる私になってはいませんか?

2019年7月12日

第10回

先週、本校では女子高祭が行われ、学校全体が一丸となりました。また、一学期も残り十日となり、もうすぐ夏休みになります。皆さんにとって一学期はどんな時間でしたか。

先日、本校の卒業生からこんな話を聞きました。
「飯田女子高校に入学した頃は、沢山の友達を作りたい、クラブを頑張りたいと、高校生活への期待に胸が膨らみ、学校に行くのが楽しみでたまらなかった。しかし、いざ学校生活が始まると、クラブの練習は厳しいし、勉強との両立は大変。クラスメイトとの人間関係に悩んだこともあった。時には自分が置かれている状況に苦しみ、『私の高校生活はこんなはずではなかった』と感じた。しかし高校を卒業してから、高校時代に悩んだ経験が、実は自分には必要なものだったと思った。厳しい練習の中で培った忍耐力のおかげで、壁を乗り越えられた時があった。人間関係で悩んだ分、これからは仲間や友達を大切にしようとも思った。これは、『悩み』や『苦しみ』の経験が気づかせてくれたものだと思う。『悩み』も自分の人生の一部だと、飯田女子高校での生活から学んだ。紛れもないここが私の学校だったと気づかされた。」

私たちは日頃、目先の「悩み」や「苦しみ」に左右され、今自分が身を置いている場所なのに、「こんなはずではなかった」と、自分勝手に思ってしまいがちです。しかし、話をしてくれた卒業生のように「悩み」や「苦しみ」や「喜び」、どれも私の人生の一部だと思い、どんな場所でも、ここが自分の居場所として、地に足をつけて歩んでいくことが大切なのではないでしょうか。

この一学期、皆さんもそれぞれに「悩み」を抱えながら過ごしてきたかと思います。しかし、どんな「悩み」の中でも、今私たちがこの場所に身を置いていることにかわりはありません。どんなに悩み、傷ついても、誰にも代わってもらうことのできない自分の飯田女子高校の生活を、これからも自分の足で歩んでいきたいものです。

2019年6月7日

第7回

今年は五月の末頃に、真夏のような暑さが突然やってきました。そして、梅雨をむかえる季節となった今は、雨が降ると蒸し暑く、晴れると厳しい暑さとなりがちです。水分や塩分補給など、体調の管理に気を配りましょう。

今朝は榎本栄一という方の詩を紹介します。

「朝」
自分がどれだけ
世に役立っているかより
自分が無限に
世に支えられていることが
朝の微風の中でわかってくる

瞑想している今の私。今、この瞬間、ここにこうして目を閉じて座っている私は、飯田女子高校に学ぶ者の一人として、今ここで与えられたスケジュールに沿って生活しています。そんな私が、今日をこうして過ごしてゆけるように、いかに多くのものが私に関わってくれているか考えてみてください。今朝目を覚ましてから、ここに私が座るまで、私に関わったものが数限りなく存在することに気付きますね。私が今日という日を歩いてゆけるように存在し、私に様々な働きかけをしてくれているものがあるからこそ、こうして私が生活できているのです。

また、榎本栄一さんの詩には次のような詩もあります。

「遇う」
わがはからいが
まじるので
私は失敗する
失敗だらけの中で
私は仏に遇う

自分が無限に世に支えられていることがわかっていても、「私が」という意識が強くはたらいて失敗する私。やってできないことはない。あの人には負けたくない。そう思って頑張ってもうまくいかない。叱られてばかり。「どうして私だけが…。周りはみんな上手くやっているのに…。」愚痴をこぼしてしまう。だけど、そんな世渡りの下手な私でも、私を支えてくれるものがあることに目が向けば、「ありがとう」という感謝の気持ちが湧いてきます。そんな生活の積み重ねが「私の人生素晴らしいよね」と思えるきっかけとなるのです。それが、榎本栄一さんが「仏に遇う」と表現しているこころの世界なのです。

2019年5月31日

第6回

明日から六月になり、いよいよ衣替えとなります。夏の足音が、少しずつ聞こえてくる季節になりましたね。

さて皆さんは、正面玄関前の駐車場に、「五葉の松」が植えられていることをご存じでしょうか。平成十八年度の卒業生が、卒業記念品として植樹してくれたものです。先日その「五葉の松」を、雨の中校用技師さんが剪定して下さっているのを見かけました。

「五葉の松」は、飯田女子高校の校章のモチーフにもなっています。常緑樹である松は、暑い夏でも寒い冬でも、いつでも青々と、生き生きと輝いています。この松のように私たちも、楽しい時も辛い時も、自分にとって都合の良い時も悪い時も、いかなる状況でも、決して笑顔を忘れないで、一生懸命生きていってほしいという願いが、校章には込められています。

今、皆さんが学んでいる浄土真宗の教えは、自分に都合の良いことを神様や仏様にお願いするような、自分中心のものではありません。辛いことも悲しいことも、自分にとって都合の悪いことも、自分に与えられた人生として素直に受けとめていくという教えです。浄土真宗を開いた親鸞聖人は、「人生をむなしく過ごしてはならない」という阿弥陀仏の本願に報いる心によって、念仏の教えを説かれていきました。その念仏の教えのもと、本校では生徒も先生も、ひとりひとりがその本願に目覚め、明るく生き生きと生活していくことを大切にしています。神様や仏様にお願いしなくてもいい。自分にとって都合の悪いことにも願いがあり、私たちはその願いに育てられている。そう気づかされ、全てに「ありがとう」、「おかげさま」と感じられる世界を切り開いていける人になってほしい。これが飯田女子高校の願いなのです。

「五葉の松」の校章を胸に、今まで一万七千人以上の生徒が本校を巣立っていきました。私たちもその一員です。この松のように生き生きとした生活を送るためにも、自分にかけられた願いひとつひとつに気づける私でありたいものです。

2019年5月24日

第5回

みなさんは自分の名前について考えてみたことはありますか?今朝は少し自分の名前について目を向けてみてください。

仏教の教えを一番最初に見いだした釈尊は、生まれた時、両親から「シッダールタ」という名前をもらいました。両親が子供の誕生の喜びとともに、この子が将来、強い意志で目的を達成することができるようにという願いを込めて、「目的を達成する」という意味の「シッダールタ」という名前を贈ったのです。

私の名前にも、私の誕生を待ち望み、名前を考え、今の名前を私に贈ってくれた両親をはじめとする多くの人たちの思いがこもっています。

両親や祖父母が考えて、名前をつけてくれたという人が多いでしょうが、姓名判断のできる人や、お坊さんなどにお願いして考えてもらった名前だという人もあることでしょう。親の名前から文字をもらったり、字画で決めたり、漢字や言葉の意味から考えたり、経典の言葉や生まれた場所、生まれた季節や生まれた順番、親の尊敬する人や好きな人の名前をもらったり、そこには皆さんが誕生した時、皆さんの親となった、両親をはじめとする周りの人たちの、あなたの誕生に対する喜びと、素敵な人生を歩き続けてほしいという、将来の幸せを願う思いが込められています。そんな願いをいただいて、今、私は尊い私の人生を歩いているのです。

ある人がこんなことを書いています。

「私の名前は、たぶんお父さんがつけてくれたと思いますが、私の名前の文字には、美しいという意味があります。美しく育ってほしいという意味が込められているそうです。それは、外見というよりも中身が美しく育ってほしいということだと思います。でも、私はやらなければいけないことをやりたくなくてサボってしまったり、興味本位からいけないとわかっているのに面白半分にやってしまったり、守らなければいけない決まりを守れなかったり、そして、親に叱られると、ムカっと来て反発したり、そんなことばかりでした。叱ってくれる親の願いに気づきませんでした。
美しく育つということは、自分の人生の素晴らしさに気づけるように、願いのかけられている自分に気づいて、ありがとうと思える子に育ってほしい、そういうことなのかも知れません。」

2019年5月17日

第4回

来週の月曜日は、いよいよ第一回目の「お弁当の日」です。土日に準備をし、月曜日には、一人ひとりの気持ちがこもったお弁当が用意できるといいですね。

さて、各教室には今、釈尊降誕会の花が飾られています。美しく咲き匂っていた花も、今では時間とともに花びらが散り、枯れていってしまっています。しかし、釈尊降誕会の時に感じた、美しい花の姿や香り、花を見た時の喜びは、今でも皆さんの心の中に残っていませんか。

「花びらは散っても花は散らない。人は去っても面影は去らない。」

これは、親鸞聖人の教えに生きた、金子大榮先生の言葉です。咲いては散っていく花の姿には、儚さや寂しさだけが残るのではない。生まれては亡くなっていく、人のいのちの営みは、死を持って終わりではない。花びらが散るのと同じように、大切な人やものとの別れを通して教えが開かれ、感じられる世界があるということを、教えて下さっています。人は亡くなると、その人の姿はもう見ることはできません。しかし、その人との出遇いや、その人を通して出遇ったもの、数々の思い出、その人の存在が、私たちの心の中で生き続ける限り、その人の「花」は散らないのではないでしょうか。また逆に、その「花」こそが、今を生きる私たちに「はたらきかけ」として、生きる力を与えてくれているのではないでしょうか。そのことを仏教では「久遠のいのち」と言うのです。

釈尊降誕会の花を見て、「花の数だけいのちがあるのだと思った。」と述べていた生徒がいました。この生徒の気づきのように、花にも尊い「いのち」があり、この「いのち」から、私たちは出遇いや別れ、そして「本当に生きる」とはどういうことなのか、教えられているように感じます。

2019年5月10日

第3回

今年のGWは例年よりも長い休みになりましたが、心身ともにリフレッシュできたでしょうか。

先日、本校が大切にしている宗教行事「釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)」がお勤めされました。釈尊降誕会は仏教を開かれたお釈迦様の誕生をお祝いする中で、人として生まれたことの意味を問い、いのちの尊さを確認してゆく大切な行事です。
 お釈迦様は、今から二千五百年前、北インドの釈迦族の王子として誕生されました。誕生伝説によると、お釈迦さまが誕生された際、まわりの木々や草花は全て一度に咲きそろって、何とも言えないくらい良い香りをただよわせ、空からは甘露(かんろ)の雨がふりそそぎ、お祝いしたと言われています。また、お釈迦様は誕生されてすぐ、七歩あゆんで、右手で天を、左手で大地を指さして【天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)】と叫ばれたと言われています。七歩歩くとは、6つの迷いの世界を一歩踏み出したことをあらわしており、七歩目を踏み出すということは、迷いの世界にいる私が、そのことに気づいて、今の自分から新しい自分に踏み出すことを意味します。天上天下唯我独尊という言葉は「この世の中で一番尊いものは私の命です」という意味になります。この世の中に私がいのちをいただいて生きることの尊さ、人生の素晴らしさを示してくださっているのです。しかし、それは決して「私だけのいのちが尊いのだ」という意味ではなく、「私の周りにいる一人一人のいのちも尊く、素晴らしいのです」ということを現しているのです。いかにお釈迦様が偉大であっても、生まれてすぐに歩き、言葉を話すことは考えにくいことですが、誕生伝説はお釈迦様がこの世に生まれた意義を現しているといえます。

釈尊降誕会で、校長先生や担任の先生のお話、生徒の感話を通して、「私が生まれた意義や生きる喜び」「いのちの尊さ」を見つめ直す「きっかけ」になったでしょうか。

2019年4月19日

第2回

ゴールデンウィーク明けの五月八日に釈尊降誕会が行われます。釈尊降誕会はお花まつりとも言われます。誕生したときの姿の釈尊の周りをお花で飾るからです。

ところで、仏壇にお花を飾るとき、四季折々の花を飾ります。そして、その花が生き生きとした状態を保つように、時々水をかえたりします。
 仏壇には造花は飾りません。その理由は、仏さまに飾った花がやがて枯れていく様を、私たちが目にすることに意味があるからです。その現実に目を向けることで、私たちが生きている世界の無常、つまり、全ては同じ状態でとどまることなく、移り変わっていくという真理に目を向けさせようという仏さまのはたらきがそこにはあるのです。だから、花瓶に飾られている花は仏さまの方に向いてではなく、私たちの方へ向けて飾られています。仏さまのはたらきは、いつも私たちへと届けられているのです。

飾られた花を通して、仏さまのはたらきを受け止めると、私の目が真理へと向けられて大切なことが見えてきます。枯れていく花と同じように、私たち人間もやがて枯れていくということです。
私たちは枯れるとわかっていても、花のために汚れた水を綺麗な水に取りかえます。どうしてなのでしょうか。汚いままではやく枯れてしまえばいいのなら、取りかえる必要はありません。それを、私自身に置き換えると大切なことが見えてきます。私だって、体に悪いことをして、自分を大切にしないで、はやく枯れてしまえばいいだけのことになります。でも、そんな生き方はしませんよね。どうにかこうにか精一杯生きていく。自分の思いを叶えようと、なんとか頑張る。そうやって生きていかなければなりません。
仏さまの前に飾られた花は、どんな枯れ方をしようと、あなたが歩いている今が、やがて命終わるときに後悔しない生き方になるようにできていますか、と問いかけてくれているのです。

釈尊降誕会では、ステージがみなさんの持ち寄った花で飾られます。仏さまの周りに私に向けて飾られた花に心を寄せて、感じたままの気持ちを大切にして下さい。

2019年4月12日

第1回

全校の皆さん、おはようございます。飯田女子高校は、親鸞聖人が開かれた浄土真宗の教えのもと創られた学校であり、生徒も先生も「聞法(共に教えを聞く)」という姿勢や時間を大切にしています。その一つとして、毎週金曜日の瞑想の時間に、身近な出来事や仏教の教えを題材にした法話を放送しています。この法話の時間が、皆さんにとって自分自身を振り返る時間となり、新たな自分と出遇えるきっかけになると嬉しいです。

さて、新入生の皆さんは飯田女子高校に入学し、新しいクラスや友達、先生と出遇いました。二年生はクラス替えにより、一年生の時のクラスの友達と別れ、新たなクラスの仲間と出遇いました。三年生はいよいよ自分の進路を考える時期となり、一年後、また新たな出遇いが待っています。人やもの、場所との出遇い。私たちは様々な出遇いを繰り返しながら人生を歩んでいきます。しかし出遇いは必ずしも自分にとって都合の良いものばかりではありません。

仏教を開かれたお釈迦様は、三十五歳の時に、すべての出来事は「縁」によって成り立っていると悟られました。「縁」があるから出遇い、別れも「縁」によっておこるもの。どんなに一緒にいたくても、別れる「縁」があれば別れる。どんなに一緒にいるのが嫌でも、一緒にいる「縁」があれば一緒にいる。「縁」は、自分の想いや力ではどうすることも出来ないという「事実」を、私たちに教えて下さっています。

普段自分の都合ばかりで出遇いの良し悪しを決めてしまいがちですが、出遇いのひとつひとつには必ず「意味」や「願い」があり、そこに気づかされた時、新しく見えてくる世界があるのではないでしょうか。いただいた「縁」を大切にし、精一杯前を向いて進める私でありたいものです。

心の広場

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