心の広場|自分の素敵な未来を見つけよう。生徒ひとりひとりの自主性を尊重し、健やかな品格と確かな知性を育む飯田女子高等学校です。
心の広場
- トップページ >
- 心の広場
伝道掲示板
本校では、正面玄関の横に伝道掲示板を設置しています。
書道クラブ部員の協力のもと、月替わりでいろいろな言葉を提示しています。
ホームルームなどでとりあげ、自分の生き方や心を見つめる機会となっています。
9,10月の言葉
見真~真を見つめる~
2年 松下 愛佳 書
【解説】
東本願寺の御影堂の正面に、「見真(けんしん)」という言葉が掲げられています。親鸞聖人の諡号として「見真大師」といわれていた時期がありました。
親鸞聖人は念仏の教えを説く中で、どんな時も自分の本当の姿から目を背けず、自分と向き合うことを大切にされていました。『愚禿抄』という本の中ではご自身のことを、「私の心は、外見は賢く振る舞っているが、その中身は煩悩にまみれ愚かである」と述べられています。親鸞聖人は自分のことをいかに理解していないかを知り、愚かさに気づかされていきました。
【あじわい】
「見真」が私たちに語りかけていること。それは「ありのままの私の姿を受け止めていきましょう」ということです。外ばかりに目を向けるのではなく、自分の心に目を向け、自分を誤魔化したり隠したりしないで、今の自分の真の姿を見つめましょう。どんなあなたの姿でも、受け入れてくれる場所はここ(東本願寺)にある」と、願いをかけてくれています。
ただ、気をつけなくてはならないのが、「自力」の中で自分を見つめるのか、「他力」の中で自分を見つめるのかという点です。肩に力が入りすぎてしまい、「自分や真実を見つめなくてはいけない」、「自分を受け止めなくてはいけない」となってしまうと自分の都合がはたらき、疲れてしまいます。仏様に身を委ね、仏様の教えによって見えてきた自分を問い、仏様の願いに包まれながら自分の真の姿を受け止めていく。これが「見真」に込められた願いであり、この歩みの中で、「どんな私でも安心していられる世界」、つまり「浄土」に生まれるのです。
文責:美妙
5,6月の言葉
自らを灯とし
法を灯とせよ
『大般涅槃経』より
3年 富田 珠心 書
【解説】
お釈迦様は、80歳の時にインドのクシナガラでお亡くなりになりました。自分の死期をさとった時にお釈迦様は、いつまでも自分を頼りにする弟子のアーナンダ(阿難)に対して、「自らを灯とし、自らを依りどころとして、他を依りどころとしてはならない。法を灯とし、法を依りどころとして、他を依りどころとしてはならない。」と言われたと伝えられています。「私が死んだ後、釈迦自身を頼りにしてはならない。自分の悩みに誰かが応えてくれるわけでもなく、苦しみも誰かが代わってくれるわけでもない。仏の教えを依りどころにしながら自分自身と向き合い、自分の人生をまっとうしていきなさい。」という、お釈迦様の願いがあります。
【あじわい】
これは、「自灯明 法灯明」と呼ばれている教えで、飯田女子高校の講堂にも掲げられています。この教えに身を置いた時、注意しなければならないのは、「自らを灯とし、自らを依りどころにせよ」とは、誰にも頼らず、自分の考えだけで生きなさいという、自己中心的なものではないということです。仏の教えによって見えてきた本当の自分の姿を受け止め、自分の人生を、自分のこととして引き受けていく大切さが説かれています。
2600年前に生きられたお釈迦様に、私たちは直接会うことはできません。しかし、遺してくださった教えを通して自分自身を見つめ、自分の生き方を問い直していく。そして教えに導かれながら自分の足で自分の人生を歩んでいく。この歩みの中に、お釈迦様との「本当の出遇い」があるのではないでしょうか。
文責:美妙
4月の言葉
明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは
(「親鸞聖人絵詞伝」より)
3年 奥村 未来 書
【解説】
親鸞は9歳の春、京都の青蓮院にて、慈円という僧侶のもと出家・得度されました。出家を申し出た時刻が遅いということで、慈円は「今日はもう日も暮れてきたので、明日改めて出家のための式を行うことにしよう。」と親鸞に伝えました。しかし親鸞は、「美しく咲きほこる桜の花も、一夜の嵐で散ってしまいます。その桜の花よりもはかないものが、私たちの『いのち』ではないでしょうか。明日といわずに、今ここで出家させてください。」という思いを込めて、この歌を詠んだと言われています。慈円はこの幼い親鸞の思いに心を動かされ、その日のうちに、出家するための式、得度式を行いました。
【あじわい】
親鸞が「桜」に喩えたもの、それは自分の「いのち」です。「明日自分のいのちがあるかどうか分からない。明日もしかしたら死んでしまうかもしれない。だからこそ今を精一杯生きたい。」という思いを込めました。
また、桜は「出家への決意」、嵐は「揺らぐ心」にも喩えられています。どんなにかたく決意したとしても、明日になったら気持ちが変わってしまうかもしれない。意志が揺らいでしまうかもしれない。それだけ人間の心は脆く、はかないものであると、9歳の親鸞は気づいていたのではないでしょうか。私たち人間は、「明日はある」と当然のように思ってしまいがちですが、いつどこで何が起こるかわからない。それが私たちの人生です。はかない「いのち」を生きている私。そんな私も、はかなく脆い心を持っているという事実に、目を向けていきたいものですね。
文責:美妙