素敵な未来を見つけよう。生徒1人ひとりの自主性を尊重し、健やかな品格と確かな知性を育む飯田女子高等学校です。

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学校法人 高松学園 飯田女子高等学校

心の広場

Heart of the Square

伝道掲示板

本校では、正面玄関の横に伝道掲示板を設置しています。
書道クラブ員の協力のもと、月替わりでいろいろな言葉を掲示しています。
ホームルームなどでとりあげ、自分の生き方や心を見つめる機会となっています。

7月の言葉

福井真華那 書

第59回女子高祭
乙女の軌跡

第12回

2018年7月20日

 今学期最後の法話になります。
 
 先週、長年にわたり本校の東本願寺研修でお世話になっていた、大阪のスタッフの先生が亡くなられました。「亡くなった」という突然の知らせに、大変驚きました。
 その先生は、昨年の東本願寺研修で今の三年生に向けて、「今ここにいる『いのち』。この場所に身を置いていることが事実。『自分とは何か』という問いを持って、この研修が、友だちにも班の人にも、新しい出遇いとなるように過ごして欲しい。」とお話して下さいました。研修の帰り際には、担任として引率した私に「また東本願寺で会おうな。担任、頑張りや。」と声をかけて下さいました。その時私は、これが先生との最後の会話になるということはもちろんのこと、先生と本校の生徒が過ごす、最後の東本願寺研修になるとは、思ってもみませんでした。

 この研修から二ヶ月後、先生はご自身が病気を患っていることを知ったそうです。それでも今年の東本願寺研修を心待ちにして、九月には二年生、十二月には一年生に会えることを楽しみにして下さっていたことを、後日うかがいました。
 今までを振り返ってみると、先生は私たちに、本当に沢山のことを遺して下さいました。浄土真宗の教えや、生徒一人ひとりに向けられた優しさ。時には、「瞑想だ瞑想!」と厳しく叱られたこともありました。旧校舎での最後の女子高祭の時には、わざわざ大阪から本校に来て下さり、多くの生徒と笑顔でお話しながら、校舎をまわっていました。そして、「自分のいのちがいつ終わるか分からない。」という事実を受けとめ、まだ出遇わない本校の生徒を想い、飯田女子高校のために、最後の最後まで「いのち」を使おうとして下さっていたのです。 人は、失って初めてその人の尊さを知る。けれど、別れる苦しみや悲しみを知っているから、また前へ進み、新たな出遇いをし、そして目の前にいる人を大切にしようと思える。「出遇う喜び」も、「別れる悲しみ」も、自分の人生を深めてくれるものだということを、先生との出遇いを通して、教えていただきました。

第11回

2018年7月13日

 「乙女の軌跡」をテーマに全校が一丸となって取り組んだ第五十九回女子高祭も先日無事終えることが出来ました。

 今年の女子高祭は、大雨の影響で金曜日が休校となり、日程変更を余儀なくされました。しかし皆さんの頑張りもあり、無事招待日を迎えることができ、二千名を越える方々に来校していただけました。月曜日に順延された校内祭も、とても盛り上がりましたね。
 校内祭の終わりに、校長先生が「校舎のいたるところで【ありがとう】という言葉を耳にしました」とお話しされました。3年生の屋台からは元気な声で「ありがとうございました」が響いていました。招待した友人に「来てくれてありがとう」と声をかけている生徒も見かけました。受け付けでは校舎から出てこられたお客様に「ありがとうございました」と笑顔で声をかける係の生徒や職員に、多くのお客様が笑顔でうなずいたり、「ありがとう」と返答してくださる方もおられました。お客様が来てくださるからこそ、そのお客様のために一生懸命おもてなしをしようという気持ちに私はなれるのであり、お客様が喜んでくれるから、私は嬉しい気持ちになれる。全てが「おかげさま」「ありがとう」なのです。
 浄土真宗には【南無阿弥陀仏】という念仏があります。「念仏は自然と出てくる感謝の言葉であり、ありがとうの心でもある」と親鸞聖人は言われています。

 私達一人ひとりをとりまく多くの働きかけや願い、そして支えがあったからこそ、「ありがとう」の言葉をたくさん耳にすることができたのではないでしょうか。女子高祭を終えた今、女子高祭に関わった全ての人達に「ありがとう」の気持ちを皆さんは感じていますか

第11回

2018年7月13日

 「乙女の軌跡」をテーマに全校が一丸となって取り組んだ第五十九回女子高祭も先日無事終えることが出来ました。

 今年の女子高祭は、大雨の影響で金曜日が休校となり、日程変更を余儀なくされました。しかし皆さんの頑張りもあり、無事招待日を迎えることができ、二千名を越える方々に来校していただけました。月曜日に順延された校内祭も、とても盛り上がりましたね。
 校内祭の終わりに、校長先生が「校舎のいたるところで【ありがとう】という言葉を耳にしました」とお話しされました。3年生の屋台からは元気な声で「ありがとうございました」が響いていました。招待した友人に「来てくれてありがとう」と声をかけている生徒も見かけました。受け付けでは校舎から出てこられたお客様に「ありがとうございました」と笑顔で声をかける係の生徒や職員に、多くのお客様が笑顔でうなずいたり、「ありがとう」と返答してくださる方もおられました。お客様が来てくださるからこそ、そのお客様のために一生懸命おもてなしをしようという気持ちに私はなれるのであり、お客様が喜んでくれるから、私は嬉しい気持ちになれる。全てが「おかげさま」「ありがとう」なのです。
 浄土真宗には【南無阿弥陀仏】という念仏があります。「念仏は自然と出てくる感謝の言葉であり、ありがとうの心でもある」と親鸞聖人は言われています。

 私達一人ひとりをとりまく多くの働きかけや願い、そして支えがあったからこそ、「ありがとう」の言葉をたくさん耳にすることができたのではないでしょうか。女子高祭を終えた今、女子高祭に関わった全ての人達に「ありがとう」の気持ちを皆さんは感じていますか

第10回

2018年6月29日

 女子高祭まであと一週間となりました。クラスやクラブ、係の仕事と一人一人がそれぞれに頑張っていることと思います。
 さて、文化祭が近づいてくると、学校生活がいつもと違ってあわただしくなってきます。勉強はもちろん、しなければならないことが増えて忙しくなってきます。
 文化祭の仕事だけでなく、ふだんから行っている掃除や当番、係や委員会活動も手を抜くわけにはいきません。このようにしなければならないことが重なってくると、「面倒な係の仕事やりたくないな。早く帰って休みたいな。自分だけこんなに忙しくて、遅くまで残って仕事をしなければならないのは嫌だな。」などと、ついつい心の中で愚痴ってしまいます。
 しかし、やらなければならない仕事をしなしで、他人任せにしてしまっている時、私たちは心の底から楽ができてよかったと喜べるでしょうか。私の分まで一生懸命頑張ってくれている友達を見ると、自分が悪いことをしているという罪悪感を気まずさが心の中に芽生えて、後ろめたい思いにとらわれてしまいます。
 まじめに仕事をするのは大変ですが、他人任せにしてしまって罪悪感に責められるのも気持ちよくありません。親鸞聖人はそんな私たちに、「罪悪感に苦しめられながらいい加減にやるより、光に照らされた素直な心に従って、明るく生きなさい」と語りかけてくださっています。
 女子高祭が近づいた今こそ、仏様のはたらきである光に照らされて、自分の心の中にわき起こった素直な気持ちを大切にしたいものです。

第9回

2018年6月15日

 今週の全校朝礼で、校長先生が三年生のお茶当番にふれられ、「お茶を出すときに一言添えるだけで、お茶を受け取る側は、今日も一日頑張ろうという気持ちになる。たった一言、気持ち込めることが大切だ。」とお話しされました。
 
 その日の夕方、飯田高校前の横断歩道を本校の生徒三名が渡ろうとしたときに、車を止めてくださった方がおり、その方から翌日本校に電話がありました。その三人が頭を下げて挨拶する姿をみて、当たり前のことかもしれないけど、嬉しくなったと、わざわざ電話をしてくださったのです。この話を聞き、自然と心を込めてお礼をした生徒の姿が目に浮かび、温かい気持ちのなったのと同時に、一つのあいさつの中から、また新たな繋がりが生まれたのだと感じました。

 浄土真宗の教えが書かれた本「一念多念文意」で、親鸞聖人は念仏を通し、「念を込める」ことについて、次のように述べられています。
 「念仏とは、阿弥陀さまの願いにすべてをお任せする心『信心』が基本であり、そこに『念仏を唱える』という形が伴う。だから、たくさん念仏を唱えたほうが救われるとか、『南無阿弥陀仏』と唱えなくてはならないというような、回数や形にこだわるものではない。自然と念仏を唱える自分の『心』が大切だ。」

 私たちの生活の中で、形が大切になってくる場面はたくさんあります。「挨拶をする」、「助けてもらったらお礼をする」、「困っている人がいたら助ける」なそ、当たり前のことかもしれません。しかし、その形に縛られるあまり、肝心の「心」を見失っている私はいないでしょうか。挨拶一つにおいても、意識してするのと、無意識のうちに自然とするのは違ってくるように思えます。時には、「私はあいさつしたのだから、相手にも挨拶してもらって当然だ。」と自分の思いあがった心で周りを形にはめ、見返りを求めしまう私もいるかもしれません。

 普段、形ばかりこだわったり、自分の都合で見返りを求めてしまったりと、本当に「心を込める」ことがなかなかできない私達ですが、私たちの周りには、自分の気づかないところにたくさんの「真心」があります。そんな「真心」を自然と受け取り、そして相手と心を込めて接することが出来る、そんな私でありたいものです。

第8回

2018年6月8日

 六月になりましたが、まだまだ朝昼の寒暖の差があります。着こなしを工夫して、体調管理に気を付けてください。
 さて、今朝の法話は「命」という詩を紹介したいと思います。

  命はとても大切だ
  人間が生きるための電池みたいだ
  でも電池はいつか切れる
  命もいつかはなくなる
  電池はいつかはとりかえられるけど
  命はそう簡単にはとりかえられない
  何年も何年も
  月日がたってやっと
  神様から与えられるものだ
  命がないと人間は生きていけない
  でも
  「命なんていらない」
  と言って
  命を無駄にする人もいる
  まだたくさんの命がつかえるのに
  そんな人をみると悲しくなる
  命は休むことなく働いているのに
  だから 私は命が疲れたと言うまで
  せいいっぱい生きよう

 この詩の書いたのは小学校四年生の女の子です。彼女はこの詩を書いた四ヶ月後この世を去りました。この詩は十一年という短いけれど凝縮した人生の中で彼女が身をもって学んだことそのものだったような気がします。

 あなた自身、せいいっぱい電池を使っているでしょうか。いつ切れるかわからない電池だからこそ、自分の電池を大切にしたいと思います。

第7回

2018年6月1日

 今日から六月。衣替えです。季節は夏を迎えました。皆さんの学校生活への取り組み意欲はどうでしょうか。こういった節目をきっかけにして、自分を見直すことも大切なのではないかと思います。
さて、『歎異抄』に「念仏は、かいなきひとのためなり」という言葉があります。「かいなきひと」とは、無能な人、物事を立派にやりとげる能力が備わっていない人のことをいいます。決めたことをやり遂げることができず、途中で投げ出してしまう。そして、そんな自分を素直に認められず、理屈をつけて言い訳する。そんな悲しい存在である私のことです。
今月下旬には、期末試験があります。皆さんは、試験が近くなると、しっかりと計画を立てて、勉強をしようと思うのではないでしょうか。でも、いざ計画を立てると、それだけで満足してしまい、実行すべき時間がきても、色んな誘惑に負けて、思うように勉強ができないことが多いものです。机に向かっても、机が汚いからと、勉強を始める前に掃除を始めたり、スマホでゲームを楽しんだり、自分で立てた計画なのに、なかなか実行できないといった経験、ありませんか?
「かいなきひと」とは、このような私のことをいうのです。
『歎異抄』には「誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号」という言葉もあります。頑張ろうという気持ちを保つ、健康を保つなど、一つのことを保ち続けるのは大変なことです。健康維持のためにと、甘いものを控えたり、食べ過ぎに注意したりなど、好き勝手に食べるのではなく、食べたくても我慢するといったことに挑戦することがあるかと思います。体重計の数値との戦いに、わずかながら勝利することがあっても、しばらくすると、体重計の数値が元に戻っていたり、逆に増えてしまっているなんてこともあります。
思い通りに頑張れない、そういう自分だと気づけるようにと、甲斐性のない私に気づかせるために、保ちやすい念仏が私たちには与えられているというのです。本当の自分に目が向くようにと、私の目を覚まさせてくれるのが念仏の教えなのです。

第6回

2018年5月25日

 各クラスでは女子高祭についての話し合いが進み、生徒会を中心に準備が本格的になってきました。一人ひとりが主人公となって、女子高祭を盛り上げていきましょう。 さて、東本願寺から毎月、『同朋新聞』という新聞が発行されています。以前その『同朋新聞』に、このような記事が載っていました。
  
  「鉄砲」と「仏法」は、ひらがなで書くと一文字しか変わらないけれど、全く 違うものだ。「鉄砲」は相手に向かって、つまり外に向かって撃つものだ。
 「仏法」は自分に向かって撃つものだ。
 
 「仏法」とは、仏様の教えのことです。私たちが飯田女子高校で学んでいる浄土真宗では、日頃外に向いている自分の目を内側に向けて、自分の姿を見つめ直すきっかけをいただいています。しかし、今世界に目を向けてみると、「文化」や「思想」、「宗教」など、様々なことが複雑に絡み合い、そこから生まれる摩擦によって、多くの国で「尊いいのち」が犠牲になっています。私たちが学ぶ「仏教」も宗教の一つですが、本来、人の支えとなる「宗教」が、いつからか、相手を攻撃する「鉄砲」のような「武器」になってしまっているのが現実です。その原因は、私たち人間が、自分と周りとの違いを認められなかったり、周りへの思いやりの心を忘れてしまっているからなのかもしれません。自分の都合しか考えられない「愚かな自分」こそが、相手を傷つける「鉄砲」などの「武器」になっているのではないでしょうか。
 私たち人間は、自分の都合しか考えられなかったり、人との違いを認められなかったりする心を、誰もが持っています。そんな「愚かな自分の姿」に、今日も仏様が、「今のあなたの姿で本当にいいのか。」と問いかけながら、「バラバラで一緒の世界はここにある。」と教えてくれています。

第5回

2018年5月19日

早いもので五月も半ばとなりました。今朝は「慣れ」ということについてお話ししてみたいと思います。 皆さんは、「五月病」という言葉を聞いたことがありますか。学校や会社の多くは、四月から新年度が始まります。始めのうちは、新しい環境に慣れようと緊張感がある中で一生懸命に物事に取り組むのですが、五月の連休明け頃から環境にも慣れ、その結果緊張の糸が切れてしまい、学校に行きたくなくなったり、会社を休みがちになり、勉強や仕事が手につかなくなることがあるようです。皆さんも五月病にかかっていませんか?

 「慣れる」ということは、ある面では成長する意味を持っています。一・二年生の皆さんは新しいクラスやクラブに慣れたことによって、自分がそれまで持っていた不安や迷いが解消され楽しくなってきたという人もいるでしょう。しかし、色々なことに慣れてくると、私達はついつい、いい加減になり、手を抜いてしまいがちなものです。

 「人は慣れるとそれまで手でやっていたことも足でするようになる」
この言葉は浄土真宗を開かれた親鸞聖人から数えて八代目にあたる蓮如上人が言われたものです。この言葉は「慣れ」から生れる私達の様子をよく言い表した言葉で、戒めの言葉でもあります。こうした言葉を聞くと、私達は自分自身を振り返ることができるのですが、またいつの間にか忘れてしまい、同じ事を繰り返してしまうのです。悲しいことですがそれが現実です。
 そんな私達に蓮如上人は「いつでも周りの人の教えに耳を傾ける姿勢だけは持ち続けなさい」そして「自分の都合で話を聞いてしまう私であることに気づきなさい」ということを口癖のように言われたそうです。 
 五月半ばのこの時期、「慣れ」から成長した私になるのか、それとも、「慣れ」から何事にも手を抜いてしまう私になるのかは、私達一人ひとりの心の持ち方であり、「慣れ」はどちらの私にもなりうるものなのです。 

第4回

2018年5月11日

 全校の皆さんおはようございます。今週は釈尊降誕会があり、ステージの美しさと共に、壇上で発表された感話に、多くの感動と自分を振り返る貴重な機会を頂きました。ありがたいことです。
『歎異抄』に「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」という親鸞聖人のお言葉があります。自分の都合を優先させ、思い通りになることばかりを期待してしまう私のような者は、自分にとって嫌なことや哀しいこと、辛いことが起こるのは当たり前、でも、そんな日々こそが自分を育ててくれていることがわかると、喜びを感じる事が出来るというのです。
坂村真民という詩人がこんな詩を詠んでいます。
かなしみは わたしを強くする根 
かなしみは わたしを支えている幹 
かなしみは わたしを美しくする花
高校三年生の時、生徒会役員そして、吹奏楽クラブ員として毎日忙しい高校生活を送っていた卒業生がいます。六月の朝、父親が朝のランニング中に突然亡くなるという悲しい出来事に遭遇し、進学を希望していたものの、経済的な事情から仕方なく就職しました。そしてその後、訳あって母親が家を出て行ったため、近くに住む祖父母に支えられながら、二つ年下の高校生の弟の面倒を見るといった生活をせざるを得なくなりました。責任感の強さから職場でも頼られる存在となった彼女は、やがて最愛の人と巡り会い、結婚しました。その披露宴で、彼女が花嫁として述べた言葉は、高校生の時、仏様の教えを受けた彼女らしい言葉でした。
祖父母への感謝の言葉の後、今は亡き父親へ語りかけたのです。お父さんが自分を厳しく育ててくれたことに感謝していること。そして、お父さんが亡くなる前の夜、まさか次の日に永遠の別れになるとは思わず、お父さんのかけてくれた言葉を無視して二階の自分の部屋に上がって反抗してしまったことをとても悔やんでいること。お父さんは、その突然の死を通して、私に、「大切な人と、一緒にいられるのは当たり前のことではないのだ。素晴らしいことなのだ」と教えてくれた。だから、私はそのことを忘れないで、周りの人を大切にして、新しい家族と共に生きてゆくという、亡き父への感謝と自分のこれからへの思いが込められていました。

第3回

2018年4月27日

 昨日はクラスマッチが行われました。どのクラスも学年の枠を超え、一生懸命応援している姿がとても輝いていた一日でした。 私たちが通っている飯田女子高校は、親鸞聖人が開かれた浄土真宗の教えのもと、創られた学校です。公立高校とは違い、仏教の授業があり、釈尊降誕会や報恩講など、宗教行事をお勤めします。以前、本校の卒業生からこんな話を聞きました。

 「高校生の時、仏教の授業の内容や意味が難しくてわからなかった。でも大人になって結婚をし、出産を経験して、やっと理解出来るようになった。自分のお腹を痛めて産んだからこそ、寝る時間を惜しんででもミルクをあげよう、この子のために自分も頑張ろうと思った。名前を付ける時は『こんな人になって欲しい。』と、願いを込めた。こうやって私も親から願いをかけられて育ったのだと、自分が親になって初めて知った。高校時代に仏教で学んだ『私にかけられた願い』や、『いのちの尊さ』に気づけた。」と、お話をしてくれました


 皆さんの中にも今、「なぜ仏教を学ぶのか。」と感じている人がいるのではないでしょうか。あるいは、「こんな授業は私にとって受ける意味がないのでは。」と疑問に思ったり、「難しくて分からない。」と諦めたりしてしまう時はありませんか。しかし、「意味がない。」と自分勝手に思う中にも、大切な何かに気づかせてくれる「きっかけ」があるように思います。
 高校生の頃には気づけなかったことが、大人になって社会に出たり、母親になったりなど、様々な体験や経験を通して、意味がある大切なことだったと気づかされることもあります。私自身もそうでした。悩んだ時、何かに躓いた時に、改めて仏教の学びを身を以て教えられ、今ここに立っています。 私たちが通う飯田女子高校はそんな「きっかけ」を与えてくれ、私たちは大きな「願い」に包まれて生きていることを教えてくれる「学舎」なのではないでしょうか。

第2回

2018年4月20日

 綺麗に咲いた桜も葉桜となり、春の温かさを感じられるようになりました。 4月8日は仏教を開かれたお釈迦様の誕生日です。本校では毎年5月にお釈迦様の誕生会【釈尊降誕会】を全校でお勤めしています。釈尊降誕会は別名【花まつり】とも呼び、お釈迦様の誕生をお祝いする中で、人として生まれたことの意味を問い、いのちの尊さを確認してゆく大切な宗教行事です。 お花で飾り付けをされた花御堂(はなみどう)の中の誕生仏に甘茶をそそぎ、お祝いします。本校では、生徒の代表者が感話を発表し、それを全員で聞きます。その後のホームルームで担任の先生やクラスメイトと「いのちの尊さ」について改めて考え、クラス全員で甘茶をいただきます。

 お釈迦様は、今から二千五百年前、北インドの釈迦族の王子として誕生されました。母親のマーヤー夫人が出産のため里帰りされる途中、ルンビニーという花園で誕生されたといわれています。その際、まわりの木々や草花は全て一度に咲きそろって、何とも言えないくらい良い香りをただよわせ、空からは甘露(かんろ)の雨がふりそそいで、お祝いしたと言われています。また、お釈迦様は誕生されてすぐ、七歩あゆんで、右手で天を、左手で大地を指さして【天上天下唯我独尊】と叫ばれたと言われています。これは、「この世の中で一番尊いものは私の命です」という意味の言葉です。この世の中に私が命をいただいて生きることの尊さ、人生の素晴らしさを示してくださっているその世界は、私達全員に開かれている世界です。私達の住む迷いの世界の中に、素晴らしい世界があるということを、どんな人にも幸せ不幸せの世界を超えた、すばらしい人生があることを、お釈迦様の誕生伝説は教えてくださっています。
 
 釈尊降誕会は、そういう素晴らしい心の世界を求めてゆく出発点です。二千五百年もの間、形で表され、伝えられてきたものの本当の意味を、私自身がはっきりさせる、それが釈尊降誕会といえるでしょう。

第1回

2018年4月13日

 新年度の学校生活がはじまりました。新入生のみなさんは、期待と不安の入り交じった入学当初に比べ、少し慣れて、自分らしさが出せるようになってきたのではないでしょうか。

 今日から、また毎週金曜日の瞑想の時間に「朝の法話」を放送します。この時間は、私たちが日常の中で見落としていたり、当たり前だと思っていることの中に埋もれている大切なことを、仏教の教えを聞くことを通して考えてみる時間です。心で受け止めるような聞き方をしていただけるとありがたいです。

 さて、今年の春は三月末に暖かい日が続いたため、早くから桜が咲き、陽射しをたっぷり浴びた春の花を多く目にすることができています。周りの景色を注意して見てみると、確実に時間が流れているのを感じます。いつの間にか日が長くなり、肌に触れる風のぬくもりにも温かさと季節の訪れを感じます。

 仏教の開祖である釈尊の教えの中に、「諸行無常」という言葉があります。「すべての存在は、永遠のものではない、常に変化をしている」という意味です。この言葉は、今までに何度も聞いた覚えがあることでしょう。

 時間は流れていて、止まってはくれません。今咲いている花の美しさをとどめておきたいと思っても、花は散ってしまいます。咲いている花の美しさが永遠ではないように、私にとって楽しい時間、嬉しいと感じること、すべては一瞬のことなのです。ところが、私たちは、「今」という時間が永遠に続くわけではないのに、いつまでも続くものだと自分勝手に誤解して生きています。きっと明日も同じようにやってきて、同じように学校に通って、同じ友達に出会って生活できる。そう思っているのではないでしょうか。

 こうした自分勝手な考えをしてしまっている日常ですから、私たちは、今なすべきことを「いつでもできる」という勝手な思いにとらわれることで、結局、かけがえのない「今」という一瞬を大切にできないことが多いものです。与えられた時間をなんとなく消費しているだけで、本当に素敵な時間を生きているとはいえないような過ごし方をしてしまっているのです。

 花の種も美しい花を咲かせるため日々成長しています。人である私は、学び、考え、行動に移すことで成長できるはずです。
 自分を含めた全てが、絶えず変化するのは、生きている証です。「諸行無常」とは、そんな世の中の本当の姿を教えてくれる言葉です。高校生活は三年間。三年生にはあと一年間が残されるのみです。この学校での一瞬一瞬が、私が素敵に成長できる大切な時間だと、時々意識できるとよいですね。

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