素敵な未来を見つけよう。生徒1人ひとりの自主性を尊重し、健やかな品格と確かな知性を育む飯田女子高等学校です。

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学校法人 高松学園 飯田女子高等学校

心の広場

Heart of the Square

伝道掲示板

本校では、正面玄関の横に伝道掲示板を設置しています。
書道クラブ員の協力のもと、月替わりでいろいろな言葉を掲示しています。
ホームルームなどでとりあげ、自分の生き方や心を見つめる機会となっています。

12月の言葉

3年 松田 直子 書

一切善悪凡夫人
できる人もできない人もみんな普通の人
たとえ上手にできなくても自分自身ができることを精一杯頑張る
(朝の法話より)

朝の法話

本校では、先生も生徒も「共に教えを聞く」という姿勢を大切にしています。
朝の瞑想の時間を利用して、毎週金曜日に身近な出来事を題材にした法話を放送しています。
法話を通して、一人一人が自分自身を振り返る大切な機会となっています。

第20回

2017年12月8日

 今日12月8日は、お釈迦様が「すべての出来事は『縁』によって成り立っている」と気づかれ、悟りを開いた日と言われています。全国のお寺などでは、お釈迦様が悟りを開いたことをお祝いするのと同時に、自分が歩んできた道を振り返り、人間として歩むべき方向を見直す行事として、「成道会」が行われています。

 お釈迦様は35歳で悟りを開かれてからの45年間、人々の苦しみや悲しみに寄り添いながら、苦悩する人一人ひとりに、力を尽くして教えを説き続けられました。そして、仏教伝道の旅をインドのクシナガラで終え、80歳の時にこの地で亡くなられました。

  「すべてのものは移ろいゆくものである。怠ることなく歩み続けなさい。」

 これは、お釈迦様の最後の言葉です。「諸行無常」とも言い、「形あるものは必ず壊れる」、「世の中の状況は日々変わっていく」という意味があります。
 
 皆さんはこの言葉を聞いて、どう感じますか。

 普段の生活に当てはめてみると、「明日があるから、今日はいいや。」と思ってしまう私がいます。しかし、明日が必ず来るという保証はどこにもありません。今一緒にいる仲間も、家族も、明日必ず会えるとは限りらないのです。今丈夫な身体でさえ、いつ病気になったり、事故に遭ったりするかも分かりません。いつどこで何が起こるか分からない。それが私たちの「人生」です。お釈迦様はその人生の儚さを受け留めながら、今自分に出来る事を努めて歩んでいきなさいと、説かれているのです。                            

 このような教えがあっても、なかなか意識出来ないのが私たち人間なのではないでしょうか。一日一日の大切さを忘れ、嫌な事があると、諦めたり、投げ出してしまったりする私たちですが、いただいたご縁を大切にし、精一杯自分の「いのち」を輝かせたいものです。

第19回

2017年11月24日

 来週から期末テストが始まります。体調に心がけて、万全の状態でテストを迎えてください。

 先日、以前から欲しかった本があり、「大人買い」をしました。「大人買い」とはまとめて本などを大老に買うことを言うようです。まとめて買うためにお金を貯めたわけでもなく、ただ全巻一気に読みたいという欲だけで購入してしまいました。その後も、欲しかった洋服を購入したり、見たかった映画も見ました。自分のノゾミを手に入れた時や叶った時は、嬉しく幸せだったのですが、しばらくすると今度はまた違うものが欲しくなり、次々と欲しいものが出てくるのです。

 仏教の言葉で「貪欲(とんよく)」という言葉があります。「貪欲」とは「むさぼり求める心」という意味で、百八ある煩悩の中でも特に「三毒」の一つと呼ばれています。人は自分の欲しいものや好きなものを追い求めてしまい、その欲はなくなることがありません。欲しいものを手に入れて一時の満足は得られますが、いずれ満足は薄れて、違うものが欲しくなってしまうのです。「欲しい、欲しい」という欲はその人を滅ぼす原因になり、その人の人生を乱してしまう「毒」ともなります。しかし、欲は私たちが生きていく原動力にもなります。欲しいものを買うために頑張って働く、よい点数をとりたいから勉強するというように、私たちに努力しようという意欲をわき起こしてくれるのも事実です。

 私たち人間は欲によって滅ぶこともあれば、欲によって生きる力を与えられることもあるのです。そういう私であることを自覚して、自分の中にいつもわき起こってくる欲とどのように向き合っていくか、仏さまの教えを聞くことで、そのことが問われてきます。

第18回

2017年11月10日

 皆さんの中には、体を動かすのが好きで体育が得意科目だという人がいる反面、体育の授業がある日は欠席したくなるくらい嫌だと思う人もいることと思います。また、絵を描くのが大好きで、絵を描いていると時間を忘れて、描くことに没頭してしまうという絵の得意な人がいるかと思うと、絵を描くのは苦手で、得意な人がうらやましいという人もいることでしょう。英語は得意だけど数学は苦手だとか、数学は得意だけど、英語はダメという人もいます。このように、私たちには得意なことと苦手なことが一人ひとりにあります。

 ところが、得意なことであっても、自分の思い通りに納得のいく成果をあげることはなかなかできません。なぜでしょうか。それは、自分が自分勝手な思いを優先させて、思い通りになりたいと思ってしまうからです。

 親鸞聖人が書かれた 『正信偈(しょうしんげ)』に、「一切善悪凡夫人(いっさいぜんまくぼんぶにん)という言葉があります。できる人もできない人もみんな普通の人という意味の言葉です。

 私たちは自分のことを普通だと思い、いろいろな事が上手にできる人を見ると特別な人だと思いがちです。そして、自分もあのような特別な人になりたいと思います。

 しかし、あなたが特別な人だと思う人も、その人が得意な分野以外は、自分は普通だとか、あるいは普通以下だと感じているものです。もしかしたら、あなたが得意な事をしている時には、あなたの事を特別な人だと思っている人がいるかも知れません。つまり、特別な人がいるわけではなく、自分の得意なことが他人の目にとまった時、特別な人だと思われているだけなのです。

 私たちは「できる、できない」という価値判断で人を見てしまっています。親鸞聖人はそんな私たちに「できる、できないということだけで他人と自分を比べて暗い生活に落ち込まなくてもいい。たとえ上手にできなくても、自分自身ができる事をするという事が、明るい世界に目覚める第一歩となるのですよ」と語りかけてくださっています。

 私は私なりにできることを精一杯頑張る。できないことはお願いしてやってもらう。それが私にとって大切なことなのではないでしょうか。

第17回

2017年11月10日

 今週の水曜日に報恩講がお勤めされました。講師の太田宣承先生が、「報恩講はいつもの自分から少し離れて、自分の姿を見つめ直すもの」とおっしゃっていました。皆さんにとって、報恩講はどのような時間になりましたか。 さて今朝は、「恩徳讃」について考えてみたいと思います。「恩徳讃」は、親鸞聖人が自ら詠まれたもので、本校では報恩講や釈尊降誕会、東本願寺研修や移動教室など、行事の最後に必ず「恩徳讃」を歌います。皆さんはこの歌詞の意味を知っていますか。

  如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし

 これは、親鸞聖人が「必ずあなたを救いますよ。いつもそばにいますよ。」という阿弥陀如来から自分にむけられている願いに喜んだものであり、

  師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし

 これは、教えを伝えて下さった様々なご縁と、知識への想いを詠まれたものです。「阿弥陀様から受けたご恩には、身を粉にしても報いずにはおれない。その阿弥陀様のお心を私に伝えてくださった法然上人などの高僧方にも、骨を砕いてもお返しせずにはおれない。」という親鸞聖人の、感謝の気持ちを読み取ることができます。。

 私たち人間は、一人では生きていけません。普段、多くの人に支えてもらっています。また、様々な出来事や人から学び、生きるヒントをいただきながら、導かれて生きているのです。「恩徳讃」はそんな私たちに、「今ここにいること、生かされていることに感謝し、そのことに気づかせてくれた人やものにも、心から感謝しましょう。」と、教えてくれているのではないでしょうか。  今回の報恩講でも、校長先生や太田先生からお話をいただいたり、各ホームルームで、担任の先生やクラスの仲間と感想を共有したりすることができました。今、生かされている自分の姿に気づかされ、新たに生きるヒントをいただいたように感じます。「恩徳讃」の歌詞が、改めて胸に響いた報恩講となりました。

第16回

2017年10月27日

 先週、台風21号が接近・上陸、大雨と猛烈な風をもたらし、日本列島に大きな傷跡を残しました。飯田女子高校も月曜日が休校となってしまいました。

 月曜日の朝、職員が学校に行くと台風の影響で学校の敷地全体に落ち葉が散乱しており、ひどい状態でした。すると1人の先生がホウキを持って、落ち葉掃きをし始めました。その姿を見た、他の先生達が声を掛け合い、1人また1人と落ち葉掃きを始めたのです。そして1時間もすると、朝来たときよりずっとキレイになりました。午前中、先生達全員で掃除を行いました。どんどんとキレイになっていく様子を見ていると、心が晴れ晴れと気持ちよくなりました。しかし、掃除を始めたときには、キレイにするんだという気持ちがあって頑張れたのですが、いくらやっても集めた落ち葉が風で散らばったり、銀杏(いちょう)の木から落ちた「ぎんなん」の放つ異臭が強く、「くさい、もういいんじゃないか」「いつまでやるんだろ」と正直嫌になる気持ちも出てきました。

 掃除は自分達が使った場所をキレイにするというあたりまえの行為なのですが、仏教では【労作】と呼び、大切な修行の一つだと言われます。それは早朝から厳しい労作を行う【修行】という意義も持つだけではありません。時間いっぱい使ってキレイにしようと思うこともできれば、早く終わらせ、終わりの時間を待つこともできます。周りに人がいないからとサボることもできます。掃除は私自身が自分の【心】と向き合うことができる時間でもあるのです。

 掃除の時間は学校生活にも設けられています。毎日20分間の時間なのですが、その時間が、私達に何か大切なことを気づかせ、教えてくれているように思います。みなさんはどんな気持ちで掃除の時間と向き合っていますか。

第15回

2017年10月20日

 朝晩の冷え込みが少し身にしみるようになり秋本番という感じです。朝起きたときにはまだ薄暗く、夕方もあっという間に暗くなってしまいます。日の出から日の入りまでの時間が短くなっただけで、なんだか寂しい気持ちになってしまいますね。

 私たちは心や時間など目に見えないものに振り回されて、日常生活の中で気づかないうちに自分勝手になってしまい、自分がいつも中心であるかのように誤解して人に接していることが多々あります。

 例えば、友達と待ち合わせをして遊びに行くときなどはどうでしょう。寝坊して、出かける支度に手間取って、待ち合わせ時間に遅れたとき、「ごめんね。寝坊しちゃった」と笑って済まそうとするのに、自分が待ち合わせ場所に時間より早く着いたときには、時間が過ぎてもなかなか来ない友達には、「私は早くから来て待っているのに、何であの人は来ないの。もう一五分も時間が過ぎているじゃないか」といらいらして、さらに待っていてもなかなか来ない友達には、「遅れてしまうんだったら、連絡くらいして来いよ」と腹を立ててしまったりすることもあります。このようなとき、じつは自分勝手な感情に支配されてしまっているのですが、そんな自分には気づきません。

 本当は、正しく周りを見て、自分中心の偏ったものの見方を捨て、その時の状況に合わせた言動を心がけることで、かなり気持ちが楽になるのですが、なかなかそうはいかないのが現実でしょう。だから友達とトラブルを起こしたり、思い通りにならない現実を嘆き、わがままな生活をしてしまうのが私たちです。

 でも、そういった自分の姿に気づくときもあります。そういう自分に気づけるのは、狭い心でものを見てしまっている私が、「仏さまの心」つまり、自分勝手を離れた広い大きな心に触れるからです。広い大きな心に触れると、自分の心の狭さが身にしみます。その広い大きな心に触れるチャンスを、いつもまわりが届けてくれているのです。それを私が受け取ることができるかどうかが私にかけられた課題です。

第14回

2017年10月13日

 先週の大運動会では、どの競技も白熱した試合が行われ、大変盛り上がった二日間となりました。

 大運動会2日目のバスケットボールの試合で、次のような光景を目にしました。ある2年生と3年生の試合の最中、ボールの取り合いになり、2年生が転んでしまいました。結果、3年生がボールを手にしてゴールへと向かって走っていきましたが、転んだ2年生に対し、他の3年生が「大丈夫?」と声をかけ、手を差し伸べていました。2年生は3年生の手に支えられ、笑顔で立ち上がっていました。 表彰式の最後に、校長先生が「スポーツは相手がいないと試合が成り立たない。敵であっても相手を敬う気持ちが大切だ。ラグビーには「ノーサイド」という言葉があるが、試合が終わった瞬間、敵味方の区別がなくなる。私たちは皆仲間なのだから。」とお話をされていましたが、まさにこの3年生は、敵や味方関係なく、自分の目の前で転んでいる人を助け、一緒に試合に臨もうとしていたのだと感じました。

 親鸞聖人が大切にされていた言葉の中に「御同朋・御同行」という言葉があります。「念仏の心の世界に生きる仲間」という意味になりますが、煩悩に左右され、自分の都合によって勝ち負けにこだわる私たちに、「仏様の前では勝ち負けなど関係ない。優劣や勝ち負けを越えたところに、人と人との繋がりの尊さがある。あなたも私も、同じ生活をさせていただく仲間なのだから。」と言われています。

 各組に分かれ、勝利を目指して競い合った私たちですが、勝ち負けや順位だけにとらわれることなく、一緒に笑い、泣き、気持ちを分かち合い、声をかけ合う生徒の姿がありました。勝った人も負けた人も関係なく、手を取り合い、お互いを称え合う姿がありました。その姿は、飯田女子高校の生徒の一人として「仲間」を思いやる姿であり、同じ飯田女子高校で生活する「仲間」として、1つの行事に一生懸命取り組む姿であったのだと思います。

 今回の大運動会を通して、「仲間」について考えるきっかけをいただきましたが、皆さんにとって「仲間」とは、どういうものでしょうか。大きな行事を終えた今だからこそ、改めて考えてみたいものです。

第13回

2017年9月29日

 最近、体調を崩す人が増えてきています。日中の寒暖差があり、体調管理が難しくなっているのかもしれません。風邪などの予防を心がけていきましょう。

 昨日まで2学期の中間テストが行われました。手応えはどうでしたか? 今日からテスト返しが始まります。テスト返しの時によく見かける光景ですが、テスト結果に一喜一憂する姿をみかけます。勉強した成果が出せたのでしょうか、「やって良かった」と笑顔で受け取る人。逆に、「頑張ったのに…」とため息をつく人や、悲しそうな顔で受け取る人もいます。良い点数も悪い点数も、私のやってきた「努力の結果」ではあるのですが、努力をした人ほど自分の想像していた点数と違ったり、努力に見合わない結果だと満足できず、受け止めることができないのが現実のようです。そこには、「努力した分だけ結果はついてくる」と決めつけている自分勝手な思い込みがあるのかもしれません。どんなに努力を重ねても、当日の体調が悪かったり、思ってもいなかったような問題が出れば、実力を発揮できないこともあります。では、夜遅くまで勉強したり、見たいテレビやスマホを我慢して勉強したことは無駄だったのでしょうか。今回のテストの結果としてはあらわれなかったかもしれませんが、やってきた努力はあなたの中に積み上げられ、見えない力になっているのではないでしょうか。これは勉強だけに限らず、スポーツやそれ以外の色々な場面においても同じことが言えると思います。全ての行為は次の私の行為を生じさせる因(もと)となると仏様は教えてくれています。それに様々な縁がととのって、次の私の行為となるわけです。

 努力した結果に一喜一憂するだけでなく、自分のやってきたことや結果をしっかりと受け止め、次につなげていくことが大切なのではないでしょうか。できるかぎりの努力をして、あとはあるべき姿を素直に受け止められる、そんな人になりたいものです。

第12回

2017年9月22日

 中間テストが近づいてきました。勉強は進んでいますか?そしてそれが終わると大運動会。まさに、勉学の秋、スポーツの秋です。

 ところで、私たちは皆それぞれ顔が違うように、物の感じ方も一人ひとり違います。運動会が楽しみという人もいれば、いやだなあと思っている人もいることでしょう。同じ気温も暑いと感じる人もいれば、涼しいと感じる人もいます。このように普段の生活の中で、私たちは自分の置かれている環境に心揺さぶられることが多いものです。

 私たちは、自分の思い通りになる時はご機嫌でいますが、自分の思い通りにならない不快な状況に陥った時は、つい不平不満を言ってしまいます。不平や不満を言ったところで、問題が解決するわけではないとわかっていても、友達や家族に愚痴をこぼしたり、時には八つ当たりをしてしまうこともあります。そんな私たちのことを、仏教では「煩悩具足の凡夫(自分勝手なわがままな思いでいっぱいの私たち)」と呼び、そんな自分であることに目覚めなさいと呼びかけてくれています。

 不平不満を言ったところで何も変わりません。それどころか、自分が冷静になった時、不平不満が自分の心を暗くさせるだけでなく、他人にもいやな思いをさせてしまっていた事に気づかされます。大切なことは不平不満の思いに振り回されている自分に目を向けることを通して、自分の置かれている環境や立場について心を静めて考えてみることです。

 私たちにとって大切なことは、現状をあるがままに受け止めて、そんな中で今自分がどう過ごしてゆけばよいのかを真摯に考えてみることです。そうすることが出来たとき、本当に大切な何かが見えてくることでしょう。

第11回

2017年9月1日

 今日から九月になりました。少しずつ涼しくなってきており、秋の気配を感じるようになりました。

 さて今朝は、お釈迦様の教えを通して、「今」について考えたいと思います。

     過ぎ去れるを追うことなかれ。いまだ来たらざるを念うことなかれ。
   過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。(中略)
   ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。
   たれか明日、死のあることを知らんや。
   まことに、かの死の大軍と、遇わずというは、あることなし。
                                      (中部経典『一夜賢者経』より)
 
 過ぎ去ったことは追わない。まだこれからのことをあれこれ考えない。過去はもう捨てられたも同じ。未来は来てみないとわからない。それよりも、今、やらねばならないことを熱心になすべきだ。明日死んでしまうかもしれないのだから。という意味が込められた、お釈迦様の言葉です。

 私たちは、過ぎたことをいつまでもクヨクヨと思い悩んだり、「あの頃はよかった」と、今と過去を比べ、過去に縛られてしまうことがあります。また、未来のことなど誰にもわからないのに、自分勝手に未来を想像し、不安になったり、期待したりと、心が先走ってしまうことがあります。煩悩にふり回され、支配されてしまう私たちがそこにいます。そんな私たちだからこそ、お釈迦様は、「明日、自分のいのちがあるかわからない。だから今、自分の目の前にあることを精一杯取り組もう。」と言われているのです。

 昨年度、NHK朝の連続ドラマ小説「べっぴんさん」の主題歌になり注目されたMr.Childrenの「ヒカリノアトリエ」という曲にも、同じようなフレーズがあります。「過去は消えず、未来は読めず、不安が付きまとう。だけど明日を変えていくんなら今、今だけがここにある。きっと虹はもうここにある。」と。 過去や未来ばかりに目がいくあまり、「今」という時間を見失ってしまいがちな私たちだからこそ、過去に縛られている自分、未来を追い求めている自分の姿に目を向け、過去の宿業の上に未来を築いていることを再確認しながら、「今」を大切にしたいものです。

第10回

2017年7月21日

 全校のみなさん、お早うございます。今日が1学期最後の法話になりました。

 夏休みを間近に控え、暑さも厳しくなってきました。飯田も連日30度を超す真夏日となっています。最近「靴下を下げてはいている人」を多く見かけます。理由を尋ねてみると「だって、暑いから」という答えが返ってきます。確かに暑いから靴下を下げれば少しは涼しくなるかもしれません。この他にも、「楽だから」という理由で裸足でいる人もいました。「暑いから」「楽だから」ということは誰もが感じることですが、こうした生活や考え方が私に与える影響を考えてみたことはあるでしょうか。

 学校という場は、勉強はもちろんのこと、様々なことを学ぶところです。学校生活でも楽しいことや嬉しいことだけでなく、時には我慢をする場面も求められることがあります。規則や校則もその内の一つかもしれません。また、私が進もうとする方向が間違っている時は、その方向を修正しなければならない時もあります。家で靴下を下げてはいていても、裸足でいても注意されることはないと思います。しかし学校という場所は家とは全く違う場所です。言い換えるなら、必ずしも私の思いが全て通る場所ではないということです。そのことに気づかず、私の思い通りの生活をしようとするならば、注意ばかりを受け、学校が何の魅力もない場所ということになってしまうかもしれません。大切な教えや願いにも耳を傾けることができなくなってしまう私は、ブレーキの壊れた車と同じ事なのです。その先に待っているのは「暴走と事故」私自身を傷つけてしまう結果が待っていることがあります。

 1学期が終わろうとする今だからこそ、私の心のブレーキを点検してみる必要があるのではないでしょうか。一番怖い生活は自分のブレーキが利かなくなっているにもかかわらず、それに気づかずひたすらアクセルを踏みつづけている生活なのではないでしょうか。

第9回

2017年7月14日

 全校のみなさんおはようございます。楽しかった女子高祭。その幕開けの校内祭「灯火の集い」で、生徒会長さんの創ったこんな詩が読まれました。

読む。書く。聞く。学ぶ。
見る。集める。伝える。整える。
考える。話し合う。創る。表現する。
いろいろなことに挑みたい。
でも「失敗したらどうしよう。」
「みんな、なんて思うだろう。」
まわりの目が気になって、その一歩が踏み出せない。
校内に明るい声が響く。
何かに打ち込んで生き生きとしている。
「だいじょうぶだよ!」「さあがんばろう!」
うつむくわたしの心をなでていく。
見上げると青空が広がっている。
わたしの「挑戦」が始まった。

 女子高祭ではみなさんそれぞれが、自分の役割に応じて一生懸命に取り組んだことでしょう。クラスの仲間と展示や屋台の準備、各係会などでは、ふだんつき合いのない他のクラスの人や学年の異なる人、今まであまりかかわりのなかった先生と行動を共にする機会がありました。忙しかったものの今はやり遂げた満足感が残っていることと思います。

 ふだん私たちはまわりを気にし、他と比較して自分が良い結果を出せていると満足し、良い結果が出せないと悲しくなってしまうことが多いものです。他と比べての優劣に心揺さぶられ生きているからです。

 でも、他と比べないで自分自身との戦いをすることもあります。自分が頑張れたことに満足して達成感を感じる。他と比べるのではなく、自分自身の努力に充実感を感じて、力を出し切った自分を評価して喜べる心の世界があるのです。

第8回

2017年6月30日

  全校の皆さん、おはようございます。先週の六月二十二日、フリーアナウンサーの小林麻央さんが亡くなりました。病気を患っていることを公表してから今まで、ご自身がどう自分の人生と向き合っていたか、ブログを通して想いを発信し、沢山の人たちと喜びや悲しみを分かち合いながら繋がってきました。
  
 「人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。例えば、私が今死んだら人はどう思うでしょうか。『まだ三十四歳の若さで可哀想に』『小さな子どもを残して可哀想に』でしょうか?私はそんなふうには思われたくありません。なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。だから、与えられた時間を、病気の色だけに支配されることはやめました。なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。だって人生は、一度きりだから。」(イギリス公共放送BBCへの寄稿文より一部抜粋)

 これは、連日ニュースや様々な番組で取り上げられている麻央さんの言葉です。

  私たち人間は、生まれ育った環境や境遇を選ぶことはできません。でも、どう生きるかは自分で選ぶことができます。麻央さんは病気から目をそらさずに、「喜びも悲しみも私の人生」と真正面から向き合い、「なりたい自分になる」と決意したのだと思います。そして、妻として、母親として、一人の女性として、誰にも代わってもらうことのできない「いのち」をどう生きるか。二度と繰り返すことのできない「今」と、いつ終わりがくるか分からないけれど、必ず終わりがくる「時間」を、自分のために、周りの人のためにどう使うか。一度きりの「私の人生」をどう生ききるか。この「問い」を大切にしながら家族と向き合い、周りの人と向き合い、そして自分自身とも向き合い、自分の人生を精一杯生きたのではないでしょうか。
 
 「時間」の使い方は、そのまま「いのち」の使い方になると言われています。「今」というかけがえのない「時間」を精一杯生きた麻央さんの姿は、「本当に生きる」とは、どういうことなのかという「問い」を、私たちに遺してくれたように感じます。

第7回

2017年6月16日

 先週、2年生は原点を訪ねる旅、「東本願寺研修」に行ってきました。

 記念講演では大阪で僧侶をされている【越本達了】先生からお話をお聞きしました。とてもユニークな先生で、記念講演も和やかな雰囲気の中でお聞きすることができました。お話の中で、心に残ったことや、学び感じたことはそれぞれ人によって違いますが、私が印象に残ったのは【四つの約束】のお話です。

 私たち人間は生まれてきたときに、【四つの約束】をつけられているというのです。一つは【独自性】。自分の人生は自分のものであり、誰にも変わってもらうことのできない「いのち」を生きています。「あの人みたいになれたらいいな」「あんな人生を歩めたらいいな」というように自分の人生に納得できないこともありますが、誰にも変わってもらうことはできません。二つ目は【唯一性】。私の人生は一回限りで、二度と繰り返すことのできない「いのち」を生きています。上手くいかなくても、ゲームのようリセットすることができないのです。三つ目は【有終性】。どんなことにも終わりが来ます。苦しいことや悲しいことにも必ず終わりが来ます。嬉しいことや幸せなことも同じく終わりが来ます。そして「いのち」も必ず終わりが来るのです。最後に【無常性】。「いのち」の終わりはいつ来るか、誰にもわかりません。この【四つの約束】は、私たちが約束したわけでもないのに、生まれたときからすでに付けられているのです。

 四つの約束を知ると、「一日一日を大切に生きていこう」と思うことはありますが、本当の意味で【大切にする】とはどういうことなのかを考えたことはあったでしょうか。

 「一日一日を大切にする」という答えで終わるのではなく、大切にするとはどういうことなのか、変われない人生とはどんな人生なのかなど、自分自身へ問いかけることを大切にしてほしい。そして「問いかけながらゆっくり焦らず人生を歩めばいい」そう越本先生は伝えたかったのではないでしょうか。

第6回

2017年6月2日

 仏教の授業の最初に唱和する三帰依文は、「人身受け難し、いますでに受く」で始まります。これは、「人として命をいただいて、この世に生まれてくることは難しいことだけれど、今すでに、私はこうして人として生きています」という言葉です。

 地球上には生き物が無数に存在しているのに、その中で人間に生まれることは、確率的にすごくまれなこと。だけど、私はその人間に生まれて、今を生きている。そう受け止めることのできる言葉ですが、ただ単にそういうことを言っているのでしょうか。

 私たちは、今までいろんな場面で命の尊さということについて考える機会をいただいてきました。そして、どんな命も全く平等に尊いと教えられてきました。でも、生きているということは、思い通りにならないことだらけで、悲しくなったり、苦しくなったり、辛くてすべてを投げ出してしまいたいと思うこともあります。どうしようもないくらいの苦難にぶつかったときには、「もう死んでしまいたい」、「生まれてこなければよかった」と思うことだってあります。そんな時には、自分の命さえ尊いと思えなくなってしまいます。

 でも、よく考えてみると、誰もがみんな全く平等に、自分の意志とは無関係に命を授けられて、そして、私を生かそうとする多くのはたらきかけをいただいて生きています。生きているというより、生かされているといったほうが正しいのでしょう。

 私たちは、おなかが減って毎日食事をしたり、おやつを食べたりします。体を維持するためには食べることは欠かせません。ところが、本当のことに目を向けてみるとわかることがあります。肉料理や魚料理を食べるということは、他の命に犠牲になってもらっているということです。十七年間生きたということは、十七年間自分以外の命を奪い続けたということでもあるのです。また、私の口に届くその食べ物には、ずいぶん多くの人が関わっています。その人たちのおかげで食べることができているのです。

 本当のことに目が向くと、他の命に迷惑をかけ、お世話になってばかりの日々を、私は生きていると分かります。そのことに目が向いて、「ごめんね。ありがとう。」そんな気持ちになれた時、私は何のために生まれ、何のために生きているのかといった、最も大切な問いとともに生きる人になれるのです。

第5回

2017年5月26日

 全校の皆さん、おはようございます。今週の火曜日に、1年生は進路ガイダンス、2年生は飯田女子短期大学の見学、3年生の就職希望者は産業職場見学会がそれぞれ行われました。自分の進路について考える、有意義な時間になったでしょうか。

 さて、親鸞聖人の教えの中に、「念仏者は無碍の一道なり」という言葉があります。「無碍」とは、さまたげ(碍)が無いことですから、「念仏の教えに育てられて生きる者は、何ものにもさまたげられることのない人生を歩む。」という意味になります。自分が歩んでいく道において、何ものにも邪魔されることがないなら、どんなに楽でしょう。しかし現実は、多くの悩みやさまたげに直面しながら私たちは生活しています。時には、自分に起こった出来事を、善い事と悪い事、大切な事と邪魔な事というように、自分の価値観や都合で判断しながら生きているのではないでしょうか。

 そんな私たちの生活に対して親鸞聖人は、自分の人生にどのような出来事が起こったとしても、それらにはすべて大切な意味があり、私たちを成長させてくれる「はたらきかけ」がある。悩みや思い通りにならない事から学び、育てられて人生は深まる。だから自分の価値観や都合を超えて、事実を真っ直ぐに受けとめ、自分なりの人生を歩んでいける道がある。それが「無碍の一道」であると示しています。

 1年生の中には、「私は飯田女子高校に入学するはずではなかった。」と悩んだ人がいるでしょう。クラス替えを経験した2年生の中には、「これから自分はこのクラスで生活していけるだろうか」と悩んだ人がいるでしょう。そして3年生は今、自分の進路について考え、「これから自分はどんな人生を歩んでいくのか」、「私はどうしたらいいのか」と、将来に対して不安を抱えていることでしょう。しかし、どんな人生も私の人生なのです。
 誰も自分の代わりに人生を歩んではくれません。そんなかけがえのない私の人生だからこそ、自分なりに、自分の足で歩んでいくことが大切なのではないしょうか。

第4回

2017年5月19日

 全校のみなさん、お早うございます。先週末から今週始めにかけて高校総体南信大会が行われました。各地で熱戦が繰り広げられ、飯田女子高校の生徒のみなさんも大活躍しました。 大会では様々な光景を目にすることができます。チームメイトと勝利を喜び、肩を抱き合い涙を流している選手たち。自分の望む結果が出せずに悔し涙を流している選手。出せる限りの声を張りあげ、応援している生徒。先輩達の勇姿に目をキラキラさせながら応援している1年生。みんなそれぞれかたちは違っていても、大会に参加しています。

  大会に出場している選手は勝利のために汗や涙を流し、練習を積み重ねてきたのですが、選手以外の人々の存在も忘れてはいけません。選手を影で支えてきたマネージャー。選手になれなかった同じクラブの仲間や先輩、後輩の存在。大会がスムーズに進むように運営してくれた補助員や運営委員の方々。あなたが大会に選手として参加するその影にはあなたを取り巻く、多くの「願い」や「働きかけ」があるように思います。

 これはスポーツだけに限らず、日常生活でも同じことがいえると思います。家族のために働いているお父さん。毎日食事やお弁当を作ってくれるお母さん。学校の先生や友達。多くの人たちが私一人を支えていてくれています。
 
 今回の大会で選手になれた人、選手になれなかった人。試合でいい結果を出せた人、出せなかった人。様々だと思います。結果だけにとらわれることなく、私を支えてくれている多くの「願い」や「働きかけ」に気づける私でありたいものです。

第3回

2017年5月12日

 一昨日は釈尊降誕会でした。釈尊の誕生をお祝いするこの行事に参加していると様々なことを感じます。たとえば名前について。生まれると誰でも必ず名前がプレゼントされます。今の自分の名前、気にいっていますか?

 釈尊は誕生して「シッダールタ」という名前をもらいました。両親が子供の誕生の喜びとともに、この子が将来、強い意志で目的を達成することができるようにという願いを込めて、「目的を達成する」という意味の「シッダールタ」という名前を贈ったのです。

 皆さんの名前にも、皆さんの誕生を待ち望み、名前を考えてくれた人の思いがこもっているはずです。

 親がいろいろ考えてつけてくれた名前。親の名前のひと文字をもらったり、良い運勢を開いてくれるという字画で決められたり、漢字や言葉の意味、響きの良さから決められたり、生まれた場所、生まれた季節、親の尊敬する人や好きな人の名前にあやかったり、そこには皆さんが誕生した時、皆さんの両親をはじめとする周りの人たちの、私の誕生に対する喜びと、素敵な人生を歩き続けて欲しいという、私の将来の幸せを願う思いが込められています。そんな願いをプレゼントされて、今、私は尊い私の人生を歩いているのです。

 ある人がこんなふうに語っています。

「私の名前はお父さんがつけてくれた。私の名前には美しいという文字が使われている。たぶん、美しく育って欲しいという願いが込められているんだと思う。見かけというよりも心が美しく育って欲しいということだと思う。だけど、私はやらなければいけないことをやりたくなくてサボってしまったり、興味本位からいけないとわかっているのに面白半分にやってしまったり、守らなければいけない決まりを守れなかったりする。そして、親に叱られると、ムカっとして反抗したり、そんなことばかり。叱ってくれる親の願いなんて、なかなか気づけない。美しく育つということはどういうことなのか。自分にかけられている願いに気づいて、ありがとうと感謝できる人に育つことなのか。」

第2回

2017年4月28日

 全校の皆さん、おはようございます。今月、日本を代表するフィギュアスケーター、浅田真央さんが現役引退を発表しました。浅田さんは五歳からフィギュアスケートを習い始め、今日までオリンピックや世界選手権など多くの大会に出場してきました。これまでの浅田さんの演技や活躍に、多くの人が勇気や感動をもらってきたのではないでしょうか。

 そんな浅田さんのお母さんが、六年前に亡くなられたことは、皆さんもご存じかと思います。お母さんが亡くなった直後、なかなか立ち直ることが出来なかった浅田さんでしたが、その後の大会で、見事優勝をしました。その時のインタビューで、「亡くなったお母さんに、優勝したことをどのように報告しますか?」と訊かれた浅田さんは、「母はいつも私の隣にいるので、わざわざ報告する必要はありません」と答えていました。今回の引退についても、「報告をしなくても母はわかっている」と述べていました。

 姿は見えないけれど、お母さんはいつでも浅田さんの隣にいて、共に悩み、共に喜び、共に歩みながら浅田さんを支え、どんな時でも浅田さんが強く歩んでいけるように、願いをかけてきたのではないでしょうか。そして浅田さんも、辛い時も、悲しい時も、いつでもお母さんからの願いを受け取り、今日まで頑張ってきたのではないかと思います。       
 
 親鸞聖人の教えが書かれている本、『歎異抄』の第一章は、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」という言葉から始まります。仏教ではよく、「人は亡くなると仏さまになる」と言いますが、「弥陀」とは、この「仏さま」のことを言い、私たちを真理に目覚めさせてくれる「はたらきかけ」のことをさします。姿や形はないけれど、この「はたらきかけ」は、いつでもどこでも私たちのもとに届いていて、「あなたを見守っていますよ」、「あなたを成長させますよ」と、いつでも私たちに願いをかけてくれている存在なのです。
                   
 普段、自分の都合でしか物事を考えられず、その「はたらきかけ」に気づけない私たちですが、「はたらきかけ」は、今この瞬間も私たちのところに届いていて、大きな願いに包まれながら私たちは生きているということを、浅田さんの姿から学ばさせていただいたように感じます。
   

第1回

2017年4月14日

 全校のみなさん、お早うございます。二一七名の新入生を迎え、新しい飯田女子高校の一年がスタートしました。新入生のみなさんは早く飯田女子高校の生活に慣れるといいですね。わからないことは何でも二・三年生に質問してください。

 新入生のみなさんは入学式でクラスが発表されました。二年生も新しいクラスへクラス替えがありました。新しい環境に慣れることは時間もかかり、大変なことかもしれません。今まで築き上げてきた人間関係から、新しい関係を作っていかなければならないからです。

 クラスの中には気の合う人もいれば、苦手な人もいるかもしれません。気の合う人と一緒にいると話も弾み、楽しい時間を送ることができますが、苦手な人と一緒にいると、気を遣ったり、嫌な気持ちになることもあります。もし、クラスが自分の気の合う人や仲の良い人ばかりの集まりなら、こんなに楽しく嬉しいことはありません。しかし、現実は自分に都合の良い環境や出会いばかりではありません。「この人と出会っていなければよかった」「こんな所に来るんじゃなかった」など、私たちにとって都合の悪い出会いもあります。しかし、苦手な人や嫌いな人との出会いが、今まで気づけなかったことに気づかせてくれたり、成長させてくれる存在になることがあります。

 気の合う人、苦手な人、どちらの出会いも、実は出会うべくして出会っており、欠かすことのできない大切な出会いなのです。そして、全ての出会いに意味があり、その出会いを良いものにするのも悪いものにするのも、自分の心の持ち方一つなのではないでしょうか。
 繰り返すことのできない私の人生だからこそ、多くの人と出会った「ご縁」を大切にし、様々な出会いの中で生かされていることに気づける私でありたいものです。

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