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学校法人 高松学園 飯田女子高等学校

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Heart of the Square

平成27年度 朝の法話

第26回

2016年2月19日

 全校のみなさん、おはようございます。
 今年度最後の法話になります。寒さの厳しい日や寒さが少し緩む日が繰り返され、だんだん春がそこまできていることを実感させられます。
 さて、みなさんはどのようなところに季節の変わり目を感じますか。「ふきのとう」や「つくし」などは代表的なものですが、まだ目に映るには早いですね。だから、「なにをいっているの。まだまだ冬なんだよ」と思う人もいるかもしれません。先日、校庭の桜の木を見ていたら、その枝に若い芽がしっかりふくらんでいるのをみつけました。冬の間、死んでしまったように見えた桜の木ですが、そのいのちは呼吸し続け、絶え間ない変化を私たちに気づかせてくれます。 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
  光明名号顕因縁(こうみょうみょうごうけんいんねん)
 仏の願いのはたらきは、暗闇を照らす光のように、物事の真実の姿、因縁(いんねん)をあらわすという意味です。 たとえば、私たちは桜の花には目をとめることはあっても、その枝にはほとんど眼を向けません。しかし、桜はその変化を常に私たちに示し続けてくれているのです。寒さに耐えて、ふくらんできた新芽は、私個人の力を超えたいのちのはたらきの力強さをあらわしているようです。このような真実をあらわしてくれているはたらきがあるにもかかわらず、目をふさぎ、耳を閉じているのが普段の私たちなのでしょう。 各教室に貼ってある法語カレンダーに、以前こんな言葉が紹介されていました。 「人間に生まれたのは、如来の本願を聞くためである」 これは、人間に生まれたのは私たちを生かしている仏のはたらきに気づくためであるということです。閉じられた心の眼を開き、生かされている気づきの喜びに満ちた生活を心がけたいものですね。

第25回

2016年2月12日

 全校のみなさん、おはようございます。
 三年生が自宅研修に入り、すこし寂しい気のする朝の学校ですね。特に、朝の冷え込みもあって、特別棟の冷え込んだ廊下はいっそう静けさを強く感じさせます。

 こうした静寂というのは、自分自身に心の落ち着きを与えてくれる場合があります。また、逆に不安を感じさせることもあったりします。

 なぜ、静寂はおちつきや不安という両面を与えてくれるのでしょう。それは、静かな場所に自分が居ると、嫌でも自分が見えてくるからなのです。

 つまり、自分自身が不安な状態にあるときは不安だし、楽しい状態にあるときは楽しい。静寂の中で、あるがままの自分の姿が見えるからこそ、その時々で、静寂を味わう気持ちが変わってくるのでしょう。

 みなさんは、毎朝、この時間に瞑想をしていますね。瞑想の目的は、「ありのままの自分を見つめてみましょう」ということです。瞑想の間は、「なにかを思っても、思わなくてもいい」のです。何かを思えば思っている自分、思わなければ何も考えていない自分がいるのです。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
  速入寂静無為楽(そくにゅうじゃくじょうむいらく)
  必以信心為能入(ひっちしんじんいのうにゅう)

 すみやかに迷いの世界を離れ、完全なる静けさの浄土に生まれることは、しっかり自分自身をみつめることによるのであるという意味です。

 三年生が自宅研修に入って感じる寂しさは、逆に、今、自分たちが、この飯田女子高等学校の生活をしっかりしていかなければならないということを教えてくれているのかもしれません。

第24回

2016年1月29日

 全校の皆さんおはようございます。
 三年生の皆さんには、今回が最後の法話となります。三年間聞き続けたこの法話に、何かを感じてくれていたら嬉しいです。

 ところで、本校には一年生の蓼科移動教室、二年生の東本願寺研修、三年生の沖縄への修学旅行といったように、普段通っている学校を離れて実施される行事があります。こういう行事の時は、いつもの繰り返しばかりの生活とは違うので、何か心がうきうきしたりといった特別な気持ちになりますね。でも、このような特別な行事だけでなく、普段の生活の中にも、いつもと違うことをしなければならない時があります。そういう時には、待ち遠しいけれど、不安な気持ちにもなりますね。私たちは、何か変わったことをしたいという気持ちとともに、安定した生活を崩したくないという気持ちを持っているからです。

 「正信偈(しょうしんげ)」に
  三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう)
  焚焼仙経帰楽邦(ぼんしょうせんぎょうきらくほう)
 という言葉があります。

 昔、中国に曇鸞(どんらん)というお坊さんがいて、何年もの修行の末に、仙経(せんぎょう)という教えをいただいた。ところが、お寺に帰る途中、三蔵に出会って浄土の教えを聞いたことから、苦労して手に入れた仙経をあっさりと焼き捨てたというお語がありますが、それについて述べている部分です。

 私たちは、いったん安定した生活を始めると、なかなかそこから抜け出せなくなります。この曇鸞の姿は、「これだ!」と思った時には、安定した生活を離れてでも、新たな歩みを始める勇気を持つことが大切だと、私たちに身を持って示してくださっているようです。

 三年生の皆さんは、卒業式を終えると新たな歩みが始まるわけですが、やがてそれも、普段の何気ない生活になっていきます。そんな時、物事をただ当たり前の繰り返しとしてとらえるのではなく、初心を思い出して、物事をいつも新鮮な気持ちで受け止めて、歩き続けて欲しいものです。

第23回

2016年1月22日

 全校のみなさん、おはようございます。
 毎日、本当に寒い日が続いています。手洗いやうがいをしっかりして、インフルエンザに感染したり風邪をひいたりしないように気を付けましょう。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
  譬如日光覆雲霧(ひにょにっこうふうんむ)
  雲霧之下明無闇(うんむしげみょうむあん)

 たとえば、太陽が雲や霧に覆われても、その雲や霧の下では明るいように、仏の願いのはたらきに気づいている人に心の闇はないという言葉です。

 今にも雪が舞ってきそうなどんよりとした曇りがちの天気でも、私たちにはその背後にある太陽の光によって、生活している周りの様子がちゃんと見えています。それと同じようなものだというわけです。

 私たちの日常生活はなかなか自分の思い通りに動いていきません。それでも私達は、自分の期待が次々と裏切られていくにもかかわらず、1+1は必ず2にならなければいけないと思い込んでいます。だから、たまたま自分の思い通りに事が運んだ時には、自分の力でこうなったんだとうぬぼれてしまいます。また、当てが外れて、思いがけない悲しい結果になってしまうと、私は一生懸命にやったのに、どうしてこんな事になってしまったのかと嘆きながら、その原因を全て周りのせいにしてしまいます。

 そのように自分勝手なものの見方で一喜一憂している私たちをじっと見守る背後の眼があるというのです。自分勝手な自分の都合優先の眼でしか見ることができないために生じた、厚い迷いの黒雲を突き抜けて、南無阿弥陀仏という言葉となって私たちに働きかける仏の願い。その南無阿弥陀仏が、迷いの霧を吹き飛ばして、本当のことに目を向けさせる智慧の眼を私たちに与えてくれる。だから、本当のことに眼が向いて、思い通りにならないどんな暗い生活も、私を育ててくれていたと受け止めることが出来るようになり、自分にとって素晴らしいものに変えていけることを教えてくれています。そこには、自分勝手な分別を超えたところに開ける喜びがあるのです。

第22回

2016年1月15日

 全校のみなさん、おはようございます。
 月曜日は成人の日でした。新成人の晴れ姿は、はつらつとして素晴らしいものです。毎年、成人の日を迎えた若者を祝う風習に、代々受け継がれてきた素晴らしい伝統の道のりを感じます。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
  道俗時衆共同心(どうぞくじしゅうぐどうしん)
  唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせ)

 これは、「正信偈」の終わりの言葉で、「仏道を修めようとして出家する人も、普通の生活にいそしむ在家の人も、あらゆる時代に生きる人々は、共に心を同じくして、ただひたすら、これら高僧方が信じた教えを信じて、素直な心で教えを聞き続けるとよいでしょう」という意味の言葉です。

 親鸞聖人は、仏教の教えを脈々と受け継いで、現在に伝えてくださった七人の高僧方をたたえる「正信偈」をつくられました。仏教の教えは、紀元前の昔に釈尊が開かれ、時代を超えて今に伝えられました。いわば仏教のたどってきた道が「正信偈」に記されているわけです。

 道とは、誰かが開き、いろんな人が踏み固め、そして様々な人が利用して、私たちの前に開かれています。私たちが今歩いている道も誰かが開き、大勢の人が歩んできた道です。道は何も語りませんが、そこにはさまざまな歴史がつまっています。私たちは、そんな道を歩ませていただき、また自分も道を踏み固めているのです。そういった意味では、学校も同じです。本校でも、一週間前に母校成人式が行われました。皆さんも、卒業二年後にそのような機会を迎えることかと思います。本校で共に学んだ仲間と卒業後成人して再開する時、三年間の同じ道のりを歩いたんだという思いを感じることでしょう。五十年以上の伝統の中で、仏さまの教えに基づいた心の教育がなされている本校で学ぶことができたことの喜びを、自分の中に確認できた時、同じ学校で学んだということを通して、共に成長できた仲間とのつながりから、私一人の力を超えた不思議なはたらきを感じることができるのではないでしょうか。

第21回

2015年12月18日

 全校のみなさん、おはようございます。今学期最後の法話になります。早いもので、もう十二月も後半に入りました。クリスマスのイルミネーションがあちらこちらに目立つこの頃です。綺麗で、気分がうきうきしてきますね。でも、クリスマスが終われば、一週間後にはお正月がやってきます。今年一年もあと少しです。

 ところで、今年はどんな一年でしたか?きっと、一人ひとりいろんなことがあったはずです。それら一つ一つの出来事が、どんな小さいことでも自分の歩んできた道であったということです。そして、これからも、人生という道は続いていくのです。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
  本師源空明仏教(ほんじげんくうみょうぶっきょう)
  憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんまくぼんぶにん)

 これは、親鸞が師と仰ぐ法然上人についての言葉です。我が師、法然上人は仏教をきわめた人で、善し悪しにとらわれず、すべての人を哀れみましたという内容の言葉です。

 考えてみれば、私たちの日常は、どの道を行くべきかという選択を常に迫られているといえます。しかしながら、私たちの関心は、どの方法をとれば自分が傷つかずにすむかというようなことだけにとらわれている気がします。時として嘘をついて、他人を傷つけようと、周りに迷惑をかけようと、その場をうまくやり過ごそうとしてしまっているように思います。何か心に引っかかる部分を持ちながらも、自分さえなんとか無事であればよいということに落ち着いていくことが多い気がします。まして、何で私だけがなどと思うような、自分にとって不都合なときであればあるほど、悩みは深く、選択は難しいものとなってきます。このような自分中心の考え方の私たちを、法然上人は憐れんだのでしょう。

 今年一年を振り返るということは、自分の歩いた道を振り返るということです。自分が選んできた道は正しい道であったかどうか、確認してみる必要がありそうです。

第20回

2015年12月11日

 全校のみなさん、おはようございます。
 期末テストの採点が終わって返って来たテスト用紙に、喜んだり反省したりの一週間だったことと思います。

 ところで、皆さんは返ってくるテストの結果に「あんなに頑張ったのに思ったより悪かった」と残念に思ったり、悔しい思いをしたことが数多くあるのではありませんか?

 テストに限らず、私たちの生活を振り返ってみると、努力したにもかかわらず、結果が思わしくなかったということがたくさんあるのではないでしょうか。そんな時、私たちはどのような気持ちで、その結果を受け止めているでしょうか。「あんなに頑張ったのに」とがっかりするかもしれません。「どうせ努力したって無駄だ」とあきらめたり、「もうこの次からは頑張るのやめた」と開き直ってしまう事もあるかもしれません。でも、落ち込んだり、開き直ったりしていても暗い気持ちになることには変わりありません。

「正信偈(しょうしんげ)」に
 専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん)
 報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)
という言葉があります。

 この言葉は、結果がよかったというのは一時的な喜びであり、本当の喜びではない。自分なりに精一杯努力できたという事こそ、自分の生活が充実していることを実感して、本当に喜べる素晴らしい心の世界に目覚めてゆく歩みなのだと語りかけてくれています。

 これは、比べて満足する相対満足の世界に生きている私たちだけれど、比べることよりも、自分自身のやり遂げたという充実感、満足感といった、絶対満足の世界に入ることが素晴らしさに目覚める歩みであると教えてくれているお念仏の教えそのものです。今やっていることが、何かの目的達成のための手段ではなく、やっていることそのものが目的となる生き方です。

 私たちが結果にこだわるのは当然のことです。でも、結果にこだわらずに、努力したことの充実感を味わって、喜べる生活こそが、明るい生活をもたらしてくれるということを、親鸞聖人は語りかけてくださっているのです。

 どうでしょう、今回のテストに限らず、頑張っている高校生活そのものが楽しいと実感しながら生活できているでしょうか。

第19回

2015年12月4日

 全校のみなさん、おはようございます。昨日、期末テストが終わり、二学期もあとわずかとなりました。朝、霜が降りるほどの寒さになった今、心をキリッと引き締めて頑張っていきましょう。

「正信偈(しょうしんげ)」に、次のような言葉があります。
 憶念弥陀仏本願(おくねんみだぶつほんがん)
 自然即時入必定(じねんそくじにゅうひつじょう)」

 これは、私を生かしてくれている無限のいのちのはたらきを思うことができれば、自然にありのままの姿で悩みや苦しみを超えた喜びの世界にめざめることができるという言葉です。

 私たちは何か行動を起こすとき、「格好いいところを見せよう」とか、「人から誉められるように頑張ろう」とか、あれこれ考えてしまいます。また、格好良く決まらないことが予想されると、「どうせ駄目なんだから」「もうあきらめているから」「やっても意味のないことだから」など、自分勝手な言い訳をして、目の前にある壁から逃げようとします。

 日常の活動の中で、「真面目にやることが恥ずかしい」というような風潮に流されてしまって、わざと頑張らなかったり、逆に、周りの人にすごいと思わせるために、「真面目にやっている」格好良さを、自分から人に過剰にアピールする場合もあります。

 格好悪くても、できなくても、与えられたチャンスや条件で一生懸命やることに意味があるのですが、だからといって、一生懸命やっていることを、他人にことさらにアピールする必要もないわけです。むしろ、自然に頑張れることこそが本当に格好いいことではないでしょうか。そのような意味で、「正信偈」の言葉は、私たちに「ありのままに自然でいいのだよ」と語りかけているのだと思います。

第18回

2015年11月27日

 全校のみなさん、おはようございます。
 来週は期末テストです。「しっかり勉強して頑張るぞ」と思っている人も多いことかと思います。

 「正信偈(しょうしんげ)」の中に次のような言葉があります。
  如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅっせ)
  唯説弥陀本願海(ゆいせみだほんがんかい)

 「釈尊がこの世に生まれ、仏教を説かれた理由は、ただ仏の願いのはたらきを人々に気づかせること、そのためである」という言葉です。

 私たちは先生から沢山のことを習っています。その先生が教えてくれている知識は、先生が先生の先生から教わったり、本やテレビ、新聞、インターネットなどのメディアから学んで手に入れた知識です。そうやって考えてみると、私たちが学んでいる知識は、何百年、何千年という時間の中で受け継がれたものといえます。時代や地域を超えて、知識が受け継がれているというのは素晴らしく尊いことです。仏教もまた、仏さまの教え、つまり、永遠に変わることのない真理を、その真理に目覚められた釈尊が、初めてその教えを説かれた初転法輪(しょてんぼうりん)の時から、今日まで、変わることなく受け継がれてきました。

 今、この法話で私が話している言葉も、時代を超えて受け継がれてきたものです。ここに、不思議な仏の願いのはたらきを感じます。

 勉強が好きな人も嫌いな人も、今、自分が知識を得ることができていることの幸せを改めて認識し、今できる最大の努力でテストに臨んで欲しいものです。

第17回

2015年10月30日

 全校の皆さんおはようございます。
 強歩大会が来週に近づき、体育の授業ではそのための練習に汗を流していることと思います。

 ところで、私たちには一人一人得意なことや苦手なことがあります。したがって、どんなことにも必ずよい結果が出るということばかりではありません。特に苦手なことに対しては、他人をうらやんで「あの人はいいな、あんなに速く走れて」とか「あの人みたいに勉強ができたらいいのに」とうらやましがったり、できない自分を悔しがったりしてしまいます。

   「正信偈(しょうしんげ)」に、「一切善悪凡夫人(いっさいぜんまくぼんぶにん)」という言葉があります。「できる人もできない人もみんな普通の人」という意味の言葉です。

 私たちは自分のことを普通だと思い、いろいろな事が上手にできる人を見ると特別な人だと思ってしまいがちです。そして、自分もあのような特別な人になりたいと思ってしまいます。

 ところが、あなたが特別な人だと感じる人も、じつは、その人が得意な分野以外は、やっぱり他人と比べて劣等感を感じたり、自分は特別ではなく、普通だと感じているのです。もしかしたら、あなたが得意な事をしている時には、逆に、あなたの事を特別な人だと思っている人がいるかも知れません。つまり、特別な人がいるわけではなく、自分の得意なことに頑張っているとき、その頑張る姿が他人の目にとまって、特別な人だと思われているのです。私たちは「できる、できない」という価値判断で人を見てしまうからそうなるのです。

 親鸞聖人はそんな私たちに「できる、できないということだけで他人と自分を比べて、暗い生活に落ち込まなくてもいい。たとえ上手にできなくても、自分自身ができる事をするという事が、明るい世界に目覚める第一歩となるのですよ」と語りかけてくださっているのです。

 強歩大会を前にして、走るのが遅いからとか、長距離は苦手だからとか、最初からあきらめるのではなく、走るのが得意な人も苦手な人も、自分にできる精一杯の事をして、感じること、そして、その中で得ることのできる心の世界を大切にしてください。

第16回

2015年10月23日

 全校のみなさん、おはようございます。
 十月も下旬となり、秋が深まってきました。朝晩の冷え込みに、体調を崩さないよう、健康には十分気を付けましょう。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
  還来生死輪転家(げんらいしょうじりんでんげ)
  決以疑情為所止(けっちぎじょういしょうし)

 離れることのできない迷いや苦しみの世界に流されて、生き続けてしまう原因は、仏の願いのはたらきを疑い、受け入れようとしない私たちの心にあるという内容の言葉です。

 自分を振り返ってみましょう。面倒くさいこと、嫌なことがあるとみなさんはどうしていますか。例えば、テスト。普段からいつもしっかり勉強することは大変です。でも、やる気がわいてこないとか、面倒くさいからといってさぼってばかりいると、テストが返ってきたときに「あーあ」とため息が出てしまう結果になってしまいます。また、クラブ活動の時、苦しい思いをしたくないからといって、手を抜いて練習をしていれば、試合で負けてしまった時に、「もっと練習をしておけばよかった」と後悔することになるでしょう。一日一日の積み重ねが結果につながります。

 私たちが人間である以上、嫌なことや苦しいこと、悩みは付き物です。しかし、嫌なこと、苦しいことから、逃げてばかりでは前に進みません。

 苦をまぬがれるには、その苦を生かしていく道を学ぶことです。苦しみを苦しみとしてとらえるからより苦しく感じるのであって、苦しみを当たり前として引き受けて、そのことを通して、やりがいや充実感などの喜びを見つけていこうとする前向きさが求められるのではないでしょうか。

 学校生活において、苦しいこと、嫌なことを前向きにとらえられる自分になれれば、きっと一日一日、一瞬一瞬が充実してくるのではないでしょうか。

第15回

2015年10月16日

 全校のみなさん、おはようございます。
 先週は、運動会がありました。白熱した競技が行われ、楽しく充実した一日となりましたね。秋、真っただ中、スポーツの秋であるとともに、食欲の秋、読書の秋、勉学の秋でもあります。今日一日を有意義な一日にしたいものです。

 さて、運動会が終わった今、運動会のことを振り返ってみると、一生懸命競技に取り組んだ思い出の中に、いろんな感動が残っているのではないでしょうか。それは、運動会が私個人の思いを超えて、全校のみなさんの、様々な思いのこもった行事だったからです。準備に骨を折ってくださった体育の先生を中心とした先生方や係のみんな、一緒に競技をしてくれた仲間、運動会を盛り上げてくれた応援、一緒に汗を流した仲間たちみんなの支えがあったからこそ、行事が行事として成り立ったのです。いわば、私一人を支えるために、沢山のはたらきがそこにあったわけです。それに気づくと、「ありがとう」という思いが湧いてきます。そういう思いを抱けるようにと、いつも阿弥陀仏の願いが私には届いています。だからこそ、本当のことに目が向いて、私を支えてくれている愛情である慈悲をいつも周りから貰っているという幸せを感じることが出来るのです。

「正信偈(しょうしんげ)」では、
 一生造悪値弘誓(いっしょうぞうあくちぐぜい)
 至安養界証妙果(しあんにょうかいしょうみょうか)
と、「一生の間、自分中心の心に振り回されて、悪を作り続けたとしても、私を生かしてくださる仏の願いのはたらきに気づくことができたならば、必ず、浄土の世界に生まれて生きる喜びを感じることができる」と教えてくださっています。

第14回

2015年9月18日

 全校のみなさん、おはようございます。
 朝晩が涼しくなり、通学路の風景も少しずつ秋らしくなってきました。特に、稲穂の色が黄金色になって、頭を垂れる様は、「実りの秋」という言葉にふさわしいですね。

 さて、秋と言えば、「スポーツの秋」とか「読書の秋」、人によっては「食欲の秋」といわれるように、何かに打ち込むことに適した季節であるといわれています。勉強にせよ、スポーツにせよ、何かに一生懸命打ち込む姿は、人を美しく見せるものです。

 がんばっている人を見ると、別にその人と友達じゃなくても、伝わってくるものがありますね。伝わってくるもの、それは、きっと一生懸命な人が、そこまでたどり着くまでにがんばってきた過程ではないでしょうか。一人の人が、そこへたどり着くまでに流した汗や涙の重さが感じられるから、感動があるのだと思います。

 例えば、「適当に練習をしてきた人」と「一生懸命練習してきた人」を比べて見たとき、たとえ負けても一生懸命であった人の方が感動的ですよね。「このくらいでいいや」と妥協していたら、それだけの感動しかありません。時には、自分を否定されるような先生の言葉や友人の忠告も、それが、自分では気が付かない今の本当の自分の姿なのかなと、素直な心で受け止め、改めるべきは改めて、前向きに一生懸命努力することにこそ、本当の達成感や感動があるのではないでしょうか。クラブの練習はもちろんですが、みんなが感動できる、そんな世界があればどんなにすばらしいことでしょう。

 「正信偈(しょうしんげ)」では、「仏のはたらきに気づき、生きる喜びの境地に立った人は、周りの人々にも生きる喜びを与える」と、
 必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど)
 諸有衆生皆普化(しょうしゅじょうかいふけ)
という言葉で教えてくださっています。

第13回

2015年9月11日

 全校の皆さんおはようございます。
 来週は合唱コンクールです。皆さんのクラスの出来はいかがですか?

 さて、高校にはたくさんの行事があります。その中で、クラスマッチや合唱コンクール、そしてテストなどは、私たちが努力しなければ、良い結果を手に入れることが出来ません。ですから、このような行事を前にすると、少しでも良い結果をと期待して頑張ります。

 ところが、このような意気込みで努力を始めたのは良いのですが、しばらくするとはじめの意気込みはどこかへ去り、なぜかやる気がどこかへ行ってしまうというそんな経験をした人も多いのではないでしょうか。

 「正信偈(しょうしんげ)」に
「三不三信誨慇懃(さんぷさんしんけおんごん)」という言葉があります。

 これは、私たちが何かを成し遂げようとする時、三つの心が大切で、その気持ちが失せた時、やる気を失い、暗い世界に落ち込んでしまうという意味の言葉です。

 この三つの心とは、「はじめの意気込みが堅固であること」「自分がやろうとしていることが素晴らしいことであると信じ抜くこと」「自分の目標を最後まで見失わないこと」の三つです。

 どのクラスも「よし、やってやろう」という意気込みは、最初しっかり持っていたはずです。従って、素晴らしい合唱に仕上げようという目標を忘れずに、練習をみんなで頑張れば、必ず素晴らしい合唱が出来上がるんだということを信じ抜いて頑張るということが「三つの心」にかなった取り組みではないでしょうか。

 私たちは意志が弱く、途中で諦めてしまうことがよくあります。そんな私たちに「最後までやり抜こう」と呼びかけて下さっているのが、この「正信偈」の言葉といえそうです。

第12回

2015年9月4日

 全校のみなさん、おはようございます。九月になりました。
 
二学期が始まったばかりですが、一年生はクラスごとの一泊二日の移動教室が今週から始まりました。二年生は来週、東本願寺研修です。それぞれの行事に参加することを通して、感じたことを大切にして欲しいものです。

 「正信偈(しょうしんげ)」に
 「煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
  大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」という言葉があります。

 これは「煩悩が真実を見る目をさえぎってしまっていても、いつも仏の慈悲の光は私たちを照らしている」ということを言っています。

 私が今まで生きてきた人生には、沢山のいのちが関わっています。その関わっているいのちとはどんなものでしょう。今、瞑想しているこの瞬間、私を支えている椅子、教室の香り、担任の先生や友達の気配、外から聞こえてくる小鳥のさえずりや、隣の小学校の子供たちの声、道を行く車の音などなど。静かに瞑想している私の周りに沢山の存在を感じることができます。

 しかし、瞑想が終わり、眼を開けていつもの生活に戻ってしまえば、与えられたものの存在は当たり前になり、見えているのに気づかず、見えていないのと同じものになってしまいがちです。「煩悩が真実を見る目をさえぎる」と「正信偈」にありましたが、こういうことをいうのでしょう。

 私という存在は、自分一人で生きていけるわけではありません。私を支えてくれている姿の見えない「いのちのはたらき」に気付いていくことこそが、仏の存在に気づいていくということです。そのことを通して、自分勝手なものの見方を離れることができ、本当のことに目が向くことで、育てられていると感じて「ありがとう」という感情が私の中に湧いてくるのです。「恩徳讃」に歌われる、恩に報いるという心の世界とも言えます。そのような歩みができるとよいですね。

第11回

2015年8月28日

 全校のみなさん、おはようございます。
 二学期が始まりました。まだまだ、暑い日が続きます。暑さを吹き飛ばす勢いで、学校生活に取り組みたいものです。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
 「惑染凡夫信心発(わくぜんぼんぶしんじんほ)
  証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)」

 これは「たとえ戸惑いに染まった人であっても、ひとたび私を生かしている仏のはたらきに気づくことができたならば、迷いの中にある苦悩こそがさとりの内容であると気づかされ、必ず生きる喜びに目覚めることができる」という意味です。

 私たちは、なにか苦しいことがあると、私一人が一番不幸なのだと考え、私の人生最悪と思ったり、場合によっては、すべて投げ出してしまいたいとか、死んでしまいたいとか思うこともあります。

 しかし、考えてみると、死にたいと思っている時でも、私の思いとは関係なしに、心臓は動いてくれています。

 「苦しんでいる自分」を支えている不思議なはたらきが、そこに存在するのです。私たちは苦しいことに気をとられてばかりいて、支えられている自分だということを忘れているのです。

 もう、これ以上ないぐらい悲しい、つらい、最悪ということは、悲しみの底に自分がたどりついたと思うからでしょう。ところが、底に落ちてすら、自分は支えられている身なのです。

 悲しみや苦しみから見えてくるものが必ずあるはずです。今が悲しくても苦しくても、底に落ちたからこそ、外に向けていた眼を自分自身に向けることができるのです。だから、悲しみや苦しみを通して、必ず生きている喜びに出会えるのです。

 迷いの中にある苦悩こそさとりに導いてくれるという「正信偈」の教えは、前向きに力強く生きる方法を私に教えてくれています。

第10回

2015年7月17日

 全校のみなさん、おはようございます。
 
一学期最後の法話となりました。今学期もあと一週間です。暑さに負けて、ついだらしない生活を送ってしまいがちな時期です。気持ち良く夏休みが迎えられるように、頑張りましょう。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
 
「龍樹大士出於世(りゅうじゅだいじしゅっとせ) 
  
悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん)」

 これは、釈尊が後に龍樹(りゅうじゅ)という人物が世に生まれ、有(う)と無(む)という二つの両極端な考え方を打ち砕き、この上ない教えを説くであろうと述べたという内容の言葉です。

 私たちは、普段の生活の中で、自分の都合や自分中心の思いを優先させてしまいがちです。たとえば、電車に乗り遅れた時、「いつもはちょっと遅れて来る電車が、なんで今日に限って、定刻通りに行っちゃうの」と、乗り遅れたのは自分のせいなのに、定刻通りに発車した電車のせいにしたことはありませんか。乗り遅れたのは自分のせいだとわかってはいても、腹立たしいですよね。逆に早く駅に着いた時などは、電車が遅れて定刻通りに来ないと、「何で発車時間が過ぎているのに来ないんだ」と腹を立てます。龍樹のいう有と無の極端な考え方というのは、このような自分中心の考え方をいうのです。

 人間関係でも同じことがいえます。親や先生、友だちから受ける愛情も、度を超すとうっとうしいものになりますが、足りなければ寂しくなります。また、自分が嫌だと感じている気持ちを表に出しすぎれば、周りを嫌な気持ちにさせてしまいますし、逆に、表に出さないように心がけて、自分の気持ちを内にため込みすぎると自分がつらくなってしまいます。

 偏った在り方を捨てて、その時の状況に合わせて、感情や欲望を適度な状態にコントロールすることも、時には大切なのではないでしょうか。

第9回

2015年7月3日

 全校のみなさん、おはようございます。
 先週は期末テストがありました。できたという実感のある教科、できなかったと悔やまれる教科があるかと思います。いずれにせよ、これからでる結果をしっかり受け止めて、自分なりに目標を定めて今後の勉強に生かしてください。

 さて、いよいよ女子高祭が近づいてきました。これからクラスやクラブ、係の仕事などで忙しくなることが予想されます。そういえば、「忙しい」という字は、「心を亡くす」と書きますね。自分のことのみにとらわれ、周りに気配りをする心の余裕がない状態だからです。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
 「邪見憍慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)
  信楽受持甚以難(しんぎょうじゅじじんになん)」

 自己中心的な考えやおごり高ぶりの心を持つ私たち人間にとって、仏の願いのはたらきを感じとることは、はなはだ難しい、という意味です。

 忙しいことに理由をつけて、自分のすべきことを見失ってはいけません。女子高祭の仕事以外にも、学校生活は勉強はもちろん、掃除や委員会、クラブ活動などで成り立っています。どれもが学校生活を充実させる上で大切です。準備が忙しいからといって、他の活動をおろそかにするわけにはいかないのです。自分が仕事をおろそかにすると、周りの人が私の分の仕事もしなければいけなくなるからです。

 しかしながら、私たちは人間ですから、どうしても誰かに迷惑をかけてしまうこともあるかと思います。「自分だけが忙しい」と思っている心では、自分の仕事を誰かにやってもらっていることなど、まったく気づかないでしょう。みんなで支えあいながら学校生活を送っているんだという自覚を忘れずに生活したいものです。

第8回

2015年6月19日

 全校のみなさん、おはようございます。
 来週は期末テストです。今学期の成績を決定づける大切なテストです。「しっかり勉強して頑張るぞ!」という強い思いで臨んで下さい。

 今週の全校朝礼で、校長先生が、挨拶について、見返りを求めないで心を開いて相手に迫ることが本当の挨拶であり、頭を下げるということがとても大切な意味を持っている。先輩だからとか関係なく、三年生の方から先に頭を下げる生活をしていけば、みんなが気持ち良く挨拶のできる素敵な学校になります。だから、そういった女子高にして欲しい、といったお話をして下さいました。

 「正信偈(しょうしんげ)」に「南無不可思議光(なむふかしぎこう)」という言葉があります。お念仏だと「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という表現になります。

 それぞれの最初の「南無」という言葉が、頭を下げるということを表す言葉です。「南無」は、現在インドやネパールなどで使われている挨拶の言葉「ナマステ」と語源が一緒です。相手に頭を下げて敬意を表す挨拶の言葉です。

 仏教はインドのお釈迦さまが目覚めた教えです。「南無」は、あなたを信じます、あなたに委ねますという意味。「南無不可思議光」は、お任せしてちっとも困らない生活に目覚めなさいということです。

 阿弥陀仏がいつもあなたを照らしてくれているから、阿弥陀仏の心を受け止めて、阿弥陀仏に頭を下げる、お任せする。そういうあなたになれたなら、あなたが出会うすべてのことが、あなたを育ててくれているとわかって、自分の人生の素晴らしさに目覚めることができる。これが、「南無不可思議光」の心の世界です。

第7回

2015年6月12日

 全校のみなさん、おはようございます。
 
今週はクラスマッチが行われました。競技に熱心に取り組む皆さんと、それを応援する皆さんの歓声が校内に響き渡りました。勝って嬉しかった人、負けて悔しかった人、様々な思いがあったでしょうが、その思いこそが心を育ててくれます。大切にしたいものです。

 「正信偈(しょうしんげ)」に次のような言葉があります。
 「凡聖逆謗斉回入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう)
  
如衆水入海一味(にょしゅうしにゅうかいいちみ)」

 愚かな人も賢い人も、清らかな人も極悪人も、みな自分中心の心をひるがえして、仏の願いのはたらきに気づくことができたならば、等しく救われる。それは、濁った川も清らかな川も、大きな海に流れ込めば、同じ海水となるようなものであるという意味の言葉です。

 私たちは、自分中心で生きています。そんな私が、私以外の様々なはたらきに支えられていると気づけたとき、私たちは自分中心の心を離れ、自分を支えてくれている様々なはたらきに「ありがとう」という気持ちになります。そして、周りの人々と喜びや感動を分かちあえます。

 クラスマッチを振り返って見ると、「あの時ミスさえしなければ」とか、「あの場面でうまくプレーできていれば」などと思うこともあったかもしれません。しかし、何よりも大切なのは、クラスの仲間と心を一つにして、競技を楽しめる場、感動を分かち合える場を与えてもらったということです。

 それぞれの競技が、自分一人の力ではできなかったという事実を思うと、この今のクラスの仲間と出会えたことの素晴らしさを感じるのではないでしょうか。

第6回

2015年6月5日

 全校のみなさん、おはようございます。
 今週から衣替えとなりました。初夏の日差しを受けて、制服がまぶしく感じます。服装が替われば、気分も変わります。前向きに学校生活を送りたいものです。

 「正信偈(しょうしんげ)」の中では、釈尊が次にように言われたと書かれています。
 「一切善悪凡夫人(いっさいぜんまくぼんぶにん)
  聞信如来弘誓願(もんしんにょらいぐぜいがん)
  仏言広大勝解者(ぶつごんこうだいしょうげしゃ)
  是人名分陀利華(ぜにんみょうふんだりけ)」

 善人であれ悪人であれ、迷いの中に生きているすべての人々が、仏の願いのはたらきによって、自分が生かされていると気づくことができたならば、その人は優れた人であり、心の清い白い蓮の花のような人であると、釈尊は名づけられました。そういった内容です。

 私が着ている制服には、多くのいろんな人々が関わっています。デザインを考えた人や生地を作った人をはじめ、制服を私に与えてくれた学校や親にいたるまで、たくさんの人々のおかげで、今、私は制服を着ることができているのです。だから、きちんときれいに制服を着なければいけません。

 制服に限らず、私が日頃生活しているということは、沢山の人々にお世話になっているということです。私という存在が、人や物を通して届く、様々なはたらきによって、生かされているということに気づくことが、必要なのではないでしょうか。そういったはたらきに気づくことができるならば、誰からも命令されることなく、責任ある行動が自然にとれることでしょう。

 私を生かしているはたらきに気づき、その恩に報いる生活を送って、日々の生活をみのりあるものにしたいものです。

第5回

2015年5月29日

 全校のみなさん、おはようございます。
 親鸞聖人がお念仏の教えにめぐりあえた喜びと、その教えを伝えてくださった釈尊をはじめとする、インド、中国、日本の尊敬する七人の僧侶に対しての感謝の気持ちを、漢文形式のうたとして書かれたものに「正信偈(しょうしんげ)」があります。そこには、私たちが、いつも自分の思いや立場を正当化して物事を捉えてしまう狭い心の持ち主だという自覚が記されています。

 その「正信偈(しょうしんげ)」の最初の一句は、次のような言葉で始まります。
「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なむふかしぎこう)」

 これは、「限りないいのちのはたらきをおしえてくださる仏の光に感謝して生きることを誓います」という意味です。

 四月当初には綺麗に花を咲かせていた桜も、今は緑の葉でおおわれています。花が散ってしまった今、桜は緑の葉を大きく広げて太陽の光をいっぱい受けているのでしょう。そこには、私たちの考えの及ばない大きないのちのはたらきがあります。

 私たちも同じで、いつも花を咲かせたままではいられません。始業式や入学式といったハレの日とは違ったふつうの生活の中で、桜が葉を広げて光を吸収するように、毎日の生活の中で、様々な思いをしながら経験を積んでいかなくてはなりません。桜の花が華やかで、見る人の心を魅了する美しいピンク色であることからすれば、今、緑色に美しく茂っている葉は、どちらかというと地味で新鮮みが薄い気がします。私たちのふだんの生活もこれと同じです。

 「花は美しくあるために咲くのではない。ただ咲きたいがために咲いているのだ。だからこそ美しいのだ」と語った人もいます。

 桜の花は春になると綺麗に咲き、自然のあるがままの姿で散っていくからこそ素晴らしいといえます。同様に、葉の緑には、また別の美しさがあります。私たちも、あるがままの姿でレベルアップできる様な生活をしたいものです。

第4回

2015年5月15日

 全校のみなさんおはようございます。
 今回も「人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知ることもない」という言葉から学びたいと思います。

 私たちは、いつも自分の都合を優先させて物事を考えています。自分の思いが叶えば、嬉しいし、楽しいし、幸せです。そんな時、自分の思いを受け入れてくれて、自分のわがままが通せる相手は、とても良い人です。親が友達が先生が、みんなが自分の思い通りに動いてくれたらどんなに幸せでしょう。

 ところが、現実はそううまくはいきません。それぞれの人が、自分の都合でこうありたいと思うわけですから、私の思いが全て叶うことなどあるはずがないのです。

 親や友達が私の思いに反する言動をとることはよくあることです。勝ちたいと思う試合に負けたり、欲しいものが手に入らなかったり、陰口を言われたり、意地悪をされたり、喧嘩になって悲しい思いをしたり、自分の能力のなさに落ち込んだり、思い通りにならないことだらけです。

 しかし、自分中心の心でいつも自分の都合優先に考えてしまう私だということが分かると、そういう心から離れられない人間であることの悲しさ、つまり「人と生まれた悲しみ」を思い知らされます。

 人は心を持ち、考えることができるから、ふだん本当のことに目を向けることを忘れ、自分の都合ばかり優先させていたと心から悲しく思えた時、本当のことに目が向きます。思い通りにならない悲しいことや苦しいこと、辛いことや不幸な目にあうことを通して育てられている自分であることが見えてきます。悲しい目にあったからこそ見えてくることがあります。苦しく辛い思いをして頑張るからこそ、力をつけることができるという現実があります。悲しい思いをしている時に優しい友達の一面に触れて、周りの人の温かさが分かることもあります。自分が不幸な目にあうことで、他人の心の痛みがわかることもあります。そうやって私たちは育ててもらっているのです。それが「人と生まれた喜びを知る」ということです。人と生まれたということは素晴らしいことなのです。

第3回

2015年5月1日

 全校のみなさんおはようございます。
 今朝は来週行われる釈尊降誕会についてお話しましょう。
 釈尊降誕会、この行事はお花まつりともいいます。仏さまの教えを見い出し、説きひろめてくださった、釈尊の誕生をお祝いすることを通して、私が人間に生まれたことの意味を問い、命の尊さを確認してゆく大切な仏教行事です。釈尊誕生のお話を再現するために、誕生時の姿をした釈尊の仏像にお花をささげ、甘茶を注いでお祝いします。

 本校では、皆さんに持ち寄っていただいたお花でステージを飾り、代表の方の感話をお聞きします。そして、ホームルームで甘茶をいただくこととなっています。

 ところで、降誕という言い方をするのには意味があります。釈尊の誕生は、ただ生まれたというだけでなく、真実の世界からこの世に降りてきたという事を表現しているのです。

 また、釈尊はブッダとも呼ばれます。真理に目覚めた人という意味です。私たちは、夢を見ていると夢の中でいろんなことに出会います。しかし、目が覚めてみると、夢を見ていた時、本当だと思っていたことが、じつは本当ではないとわかります。これが目覚めるということです。

 真理に目覚めるということは、私たちの毎日の生活が、じつは自分中心の心に支配されていて、本当が見えなくなってしまっている。つまり、迷いの生活になっている。そういう自分に気づいてゆくということです。

 来週の釈尊降誕会を通して、じっくり自分の本当の姿に目を向けてみてください。自分がいつも自分の思いに振り回されて、喜んだり悲しんだりしていることが分かるはずです。そして、そんな自分中心の考えで、いつも過ごしている私を、温かく包んでくれている周りの人がいることに気づくはずです。発表される感話を聞いて、自分はどうかと考えてみると、自分の心に「ありがたいな」という感謝の気持ちが、きっと湧いてくることでしょう。

第2回

2015年4月24日

 全校のみなさん、おはようございます。
 教室に貼ってある東本願寺のポスターに「人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知ることもない」という言葉が書かれています。金子大栄(かねこだいえい)という方の言葉で、「人と生まれたことの本当の喜びを知ることこそが、私にとっての大切な生きる意味なのです」と語りかけてくれています。

 私たちは、ふだん食事をする時、その材料のことまで深く考えませんが、魚を食べるときには、その魚の命をいただいているのだと言われれば、確かにそうだと理解できます。

 私たちは人殺しをしてはいけないと教えられてきました。私にとって私の命は大切なものであり、粗末にしないのが普通です。私にとって私の命が尊いということは、隣の席の人にとっても同様のことがいえるということです。ということは、海で泳いでいた魚にとっても大切な命を生きていたということになります。その魚が私を生かすために犠牲になってくれたということになります。でも、そんなこと、ふだんは考えない方が当たり前です。
お父さんやお母さんのことをちょっと考えてみてください。自分の欲しいものを我慢して、節約して、私のために頑張ってくれていると感じることはありませんか?
このように、私が生きるためには、どうしても周りに迷惑をかけ、周りを犠牲にせざるを得ない、つまり、人と生まれたということは、命を奪わないと生きてゆけない、迷惑をかけないと生きてゆけないという現実を、自分の思いとは関係なく背負っているということです。「人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知ることもない」という言葉は、そんな自分に気づいて欲しいと、私たちに呼びかけています。

 自分自身を見つめる心の余裕を持つと、自分勝手に生活してしまったり、周りへの気配りを忘れて、わがままに過ごしてしまっている自分を生かしてくれているいのちのはたらきが存在していることがわかって、ありがとうという気持ちがわき起こってきます。嬉しいことや楽しいことを提供してくれる相手だけでなく、辛いことや苦しいことや悲しい思いを私にさせるすべての相手に対して、私を生かし、成長させてくれてありがとうと思えたら、それこそが「人と生まれた喜び」を知った時なのです。

第1回

2015年4月10日

 全校のみなさん、おはようございます。
 今年も、金曜の瞑想の時間に「朝の法話」をお送りします。目を閉じて心静かに放送に耳を傾け、仏さまの心を尋ねましょう。

   赤い実のなる木に
   赤い実がなった
   木の満足

 赤い実のなる木に赤い実がなったって、当たり前じゃないか。それがどうして木の満足になるの?そう思った人はいませんか。しかし、よく考えてみて欲しいのです。日常の自分の生活を考えてみれば、当たり前のことが当たり前になるのも、じつは容易なことではないのです。

 4月3日の今年度の始業式で、校長先生から、桜の木は地上に見える枝葉の広がりと同じ広さの根っこを、私たちからは見えない地下で自分を支えるためにしっかりと張っている。それに、わずか一週間花を咲かせるために、一年間をかけて準備をしている。私たちもそんな地道に真面目な生き方をしているだろうかといったお話をお聞きしました。

 ある人からこんなお話を聞いたこともあります。「春になると、桜の樹液には、桜の花をピンク色にきれいに咲かせる成分があるんだ。だから、桜の花はピンクのきれいな花になる。夏になると桜の樹液にはその成分はなくなっているけれど、次の春になると、ちゃんとピンクの花を咲かせる準備をする。毎年それを繰り返す。素敵だと思わない?」

 赤い実のなる木に赤い実がなるのは、その木に赤い実を実らせる素質があるからです。でも、それだけでは赤い実は実りません。日照りが続いて枯れたり、花が咲く時期に天候が悪かったりして実がならないことだってあるからです。

 人それぞれ実る実は違うでしょう。しかし、実が実った時、本当に満足できなければ意味がありません。赤い実のなる木に青い実がなっては、やはり本当の満足とはならないのです。そこには必ず無理が生じているからです。私はどんな実を実らせる私なのか、私が私らしく生きるとはどういうことなのか。私が私らしく楽しく輝いていられるように、今どう生きるべきなのか。真面目に自分について考えてみる時間を持つことも大切なのではないでしょうか。

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