素敵な未来を見つけよう。生徒1人ひとりの自主性を尊重し、健やかな品格と確かな知性を育む飯田女子高等学校です。

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学校法人 高松学園 飯田女子高等学校

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平成26年度 朝の法話

第28回

2015年2月13日

 全校のみなさん、おはようございます。一・二年生の学年末テストが近づいてきました。早めの準備を心がけ、万全の状態でテストを迎えましょう。
  先日、叔母の葬儀に参列してきました。叔母は二年半の過酷な闘病生活の末に亡くなりました。葬儀で久しぶりにあった親戚は、皆年老いて、杖をつかないと歩けない人もいました。大人の周りには小さな子供達が沢山いましたが、聞いてみると「いとこ」の子供達でした。子供達は集まっては大騒ぎをしており、お葬式が何かということの実感もないようでした。葬儀が進み、火葬場に向かうときのことでした。5歳の男の子が父親に「今からどこに行くの?」と聞きました。父親は「火葬場だよ」と答えたところ、「どういうところ?」と続けて質問しました。父親はしばらく考えた後、「おばあちゃんが天国に行くところだよ」と答えました。男の子は「やだ!」と一言叫びました。ビックリする父親に「やだやだ!」と目を真っ赤にさせ、泣きながら何度も繰り返して言いました。

  みなさんならこの男の子になんと言いますか?

  私は「子供には【死】ということはわからないけど、自分の近くからいなくなるということはわかるんだ」と思いました。そんな時、「みんな最後は同じ所へ行くんだよ。「ぼく」もおばあちゃんの所へ会いに行けるよ」と言った大人がいました。男の子は「そうなの?」と答え、泣き止みました。バスで泣いていた男の子が最後のお別れの時に、叔母の棺の前で「おばあちゃん、バイバイ。またね」と笑顔で手を振っていました。

  男の子が私たちの言葉や雰囲気から何を感じ取ったのかはわかりません。ただ、男の子が最後に言った「またね」という言葉がとても心に残っています。

第27回

2015年2月6日

 全校の皆さん、おはようございます。今週、3年生の学年末テストが行われ、3年生の登校日数も残りわずかとなりました。私たち1・2年生が、3年生と一緒に過ごせる時間も限られています。この限られた時間の中で、3年生から学べることはしっかりと学びたいものです。

 さて、東本願寺から毎月『同朋新聞』という、仏教について書かれた新聞が発行されています。今月の新聞に、このような記事が載っていました。
 「鉄砲」と「仏法」というのは一文字しか違わないけれども、「鉄砲」は相手に向かって、つまり外に向かって撃つものだ。「仏法」は自分に向かって撃つものだ。 「仏法」とは仏の教えのことです。私たちが飯田女子高校で学んでいる「浄土真宗」では、自分に矢印を向け、自分の姿を見つめ直すきっかけをいただいています。しかし、今世界に目を向けてみると、「文化」や「思想」、「宗教」など、様々なことが複雑に絡み合い、そこから生まれる摩擦によって、多くの国で「尊い命」が犠牲になっています。私たちが学ぶ「仏教」も宗教の一つですが、本来、人の支えとなる「宗教」が、いつからか、相手を攻撃する「鉄砲」や「武器」になってしまっているのではないでしょうか。その原因は、私たち人間が、自分と周りとの違いを認められなかったり、周りへの思いやりの心を忘れてしまったりしているからなのかもしれません。自分の都合しか考えられない「愚かな自分」こそが、相手を傷つける「鉄砲」や「武器」になっているようにも感じます。

 私たち人間は誰にでも、自分の都合しか考えられない心を持っています。そんな「愚かな自分の姿」を、今日も「仏法」が問いかけ、そして照らして下さっています。 

第26回

2015年1月30日

 全校の皆さんおはようございます。最近ノロウイルスやインフルエンザウイルスが流行しています。学年末試験をひかえてもいますので健康管理に心がけたいものです。

 さて今朝は、私達が日頃使っている仏教から生まれた言葉を紹介し、自分を見つめてみたいと思います。
 今日紹介する言葉は「ありがとう」です。「ありがとう」という言葉は「有り難し」という言葉からきており、「有る事が難し」つまり私がこの世に存在することは難しく、滅多にないことを表しています。
 『三帰依文』にもこのように書かれています。

  人身受け難し今すでに受く。

 「私が人間として生まれることはとても難しく稀なことである。しかし今初めてそのことに気づくことができた」と説かれています。
 私の命は、たくさんの縁の働きかけや重なりがなければ、誕生することはできません。決して生まれたことは当たり前の事ではなく、とても貴重なことなのです。そんな「有り難い」命を頂いて、今私が生きている事に気づかせるために、お釈迦様はこの言葉を残してくださいました。
 しかし、私達はそんな貴重な命を「有り難い」と感じることができているでしょうか。また、自分を取り巻く様々なご縁に感謝して生きているでしょうか。私達は命を頂いた事に鈍感になっているように思います。産まれたことも当たり前、生きている事も当たり前に感じており、特に「有り難い」ことを意識することなく過ごしています。だから感謝するどころか、苦しいや悩みからうまれる生きることへの不平不満ばかりが目立ってしまいます。この言葉を通し「有り難い命をいただいている」という原点に立ち返り考えてみると、産まれた事の尊さ、生かされている事のありがたさに気づかされます。

 私達は、人として、私として、この世に生を受け、これからも様々なご縁に支えられながら生きていきます。その「生かされている」私の命に「ありがとう」という感謝の気持ちを持って、一日一日を過ごしていきたいものです。

第25回

2015年1月23日

 全校のみなさん、おはようございます。学校ではインフルエンザなどが流行しており、体調を崩す人が増えてきました。教室の換気をするなど、お互い体調管理に気を配り、元気に過ごしましょう。

 座光寺の仮校舎から上郷の新校舎にうつり、約二週間が過ぎました。引っ越しでは生徒・職員全員が頑張り、無事に新校舎へ引っ越しをすることができました。引っ越しは仮校舎と新校舎に分かれ、行われました。どちらの作業も大変だったと聞きました。新校舎では新しい校舎を傷めないように細心の注意を払い運んでくれました。仮校舎では重たい荷物を生徒が力を合わせ上の階から下まで運んでくれました。また、全ての使用した教室を隅から隅までキレイにしてくれました。「借りたときよりもキレイして返すんだ」という生徒の言葉が印象的でした。私は仮校舎で引っ越し作業をしていましたが、そんな中である生徒から「なぜ、私たちの荷物じゃないのに運ぶの?なぜ、他のクラスまで掃除をするの?」と聞かれました。私は「それはみんなで使った場所だから、誰のとか関係なくやるんだよ」と答えたところ、「ふーん、そうなんだ」という返答が返ってきました。何日も引っ越し作業を続け、体力的にも精神的にも疲れ、イライラしていたのかもしれません。私もどこかで同じ事を感じている自分がいました。
 始業式の日、私に質問した生徒が、明るい表情でやってきて、「先生、クラスの机が並んでたよ、荷物も全部クラスに入ってたんだ。朝、来てくれた人がやってくれたんだよ」と言いにきました。私は「新校舎の引っ越しをしてくれた他のクラスの生徒がやってくれたんだよ」と答えたところ、その生徒は「え?そうなの?」という驚いた表情見せ、しばらく考えた後、「女子高みんなで引っ越すってこういう事だったんだね」と笑顔で話してくれました。

 引っ越し作業はとても大変で疲れたました。でも、「引っ越し」を通して何か大切なこと学んだような気がします。

第24回

2015年1月16日

 全校の皆さん、おはようございます。新年を迎えたのと同時に、仮校舎からの引っ越しも終わり、新校舎での生活がスタートしました。新たな目標をもって生活していきたいものです。

 先日テレビで、曹洞宗や臨済宗など様々な宗派のお坊さんが集まり、トークをする番組が放送されました。その中で、滝に打たれたり、座禅を組んだり、お寺に籠もって何十日間もお経を唱え続けたりするものなど、各宗派の厳しい「修行」が紹介されていました。しかし、今私たちが学んでいる浄土真宗には、このような肉体的に厳しい「修行」はありません。それはなぜなのでしょうか。
 浄土真宗の開祖親鸞聖人は、9歳から29歳までの20年間、比叡山延暦寺で、厳しい修行をされました。ところが、いくら修行を積み、努力を重ねても、自分の中の苦しみや迷いが消えることはなく、逆に深まるばかりでした。深い暗闇にいた親鸞聖人は比叡山を下りる決意をし、法然上人と出遇いました。そこで、「煩悩を断ち切れない自分。苦しみや迷いばかりの自分。そんな愚かな自分も、本当の自分の姿として受け入れ、ただ念仏を唱えて弥陀におすがりしなさい。」という、「念仏の教え」に出遇い、厳しい修行を捨てられたのです。厳しい修行では悟りを開くことが難しいと、身を以て感じられた親鸞聖人は、煩悩を断ち切れない私たちは「阿弥陀の願い」を通して自分を見つめることしかできないということにも気づかされたのです。

 私たちは普段、親鸞聖人の歩みから沢山のことを学ぶきっかけをいただいています。飯田女子高校で過ごす毎日の生活そのものが「学びの場」であると思います。授業や掃除、クラブ活動や人間関係など、自分を見つめるきっかけが沢山あります。浄土真宗に「修行」という考え方があるとするなら、毎日の生活の中で教えを聞く「聞法」が「修行」なのではないでしょうか。

第23回

2014年12月19日

 全校の皆さんおはようございます。はやいもので、今年最後の法話となりました。

 さて今朝は、明治期に活躍された宗教家、清沢満之氏の言葉を紹介し、自分を見つめてみようと思います。清沢満之氏はこのような言葉を残されています。

 「生のみ我等にあらず、死もまた我等なり」

 この言葉の意味は、生も死も私が生きる上で大切な事実であることを説明した言葉です。皆さんはこの言葉を聞いてどのような感想を持つでしょうか。「生」つまり生きることは、私達の目にはとても明るい事実に写ります。それに対して、「死」つまり死ぬことは、私達にとって、とても恐ろしいことであり、そのことを意識し受け入れながら生きる事はとても難しいことではないでしょうか。清沢満之氏も三十二歳の時、結核の病にかかり、死に直面されました。その中で、死への不安や恐怖に襲われたそうです。しかし、その死と正面から向き合い、限りのある命をいきいきと生きるために、「死もまた我等なり」という自覚を大切にされたのです。

 また、この言葉には自分がこれから目の当たりにする受け入れがたい様々な事実と向き合うことの大切さを伝える言葉でもあるように思います。自分にとって都合の良い受け入れやすい事実だけを受け入れるのではなく、自分にとって都合の悪い受け入れがたい事実にも目を背けず、自分のこととして受け入れる事を促しているように思うのです。苦しいことや辛いことに相対したとき、私たちはできるならばその事実から逃げたいとか、避けたいと思ってしまいます。しかし、その苦しい体験や辛い体験が、私に大事な事を気づかせてくれるのではないでしょうか。

 私たちは、生に執着し死や受け入れがたい事実を遠ざけてしまいます。しかし、私たちが生きる以上、それらの苦しい事実に必ずぶつかってしまいます。私の前でおこる全ての事実から目を背けず、向かい合っていくことが生きる上で大切なのではないでしょうか。

第22回

2014年12月12日

 全校の皆さん、おはようございます。寒い日が続き、週末は雪が降るようです。路面など凍結する恐れもあるので、気をつけたいものです。

 さて、12月も半ばにさしかかり、今年も残り3週間をきりました。また、この仮校舎で過ごす時間もわずかとなってきました。皆さんにとって、この1年半の仮校舎での生活はどうでしたか。
 引っ越してきた当初、全校で仮校舎の大掃除をしました。広い敷地に迷いながらも、一生懸命掃除に取り組んでいる皆さんの姿がありました。桜が咲く4月には、元善光寺や麻績神社まで写真を撮りに行ったクラスがありました。釈尊降誕会や女子高祭など、例年と場所が違う中での行事開催。生徒会役員の人たちを中心に智恵を出し合い、全校で一丸となって行事を作り上げることが出来ました。
 今までと勝手が全く違う場所や環境の中での生活は、時に苦労したり不便に思ったりする時もあったかもしれません。中には、「早く新校舎に行きたい。」と思っている人もいるでしょう。しかし、この校舎で過ごした楽しかったことも苦しかったことも、この場所だからこそ経験出来たことだったのだと思います。この経験こそが私たちを育て、また一段と大きく成長させてくれたのではないでしょうか。そして、この仮校舎も私たちにとって、かけがえのない場所へとなったのではないでしょうか。
 
 あと数週間後にはこの仮校舎を離れ、新校舎に移ります。校舎が変わり、新たな飯田女子高校の歴史が刻まれていこうとしています。その中で、この仮校舎で過ごした時間も飯田女子高校の大事な歴史となり、この場所での経験が、これからの飯田女子高校を支えてくれるはずです。だからこそ、残り少ない仮校舎での一瞬一瞬の時を、大切にしていきたいものです。

第21回

2014年12月5日

 全校のみなさん、12月に入り寒さが一段と厳しくなりました。12月は「師走(しわす)」と言い、お坊さんが忙しく走りまわる様子を現しています。慌ただしいからこそ、落ち着いて生活できる私でいたいものです。

 さて、先日「お寺の食事」という番組の中で、とても印象に残る言葉がありました。紹介したいと思います。

 「美味しい物をいただくのではなく、美味しくいただくことを大切にしている」

 この言葉は大きなお寺で、食事担当をされているお坊さんが言われた言葉です。修行僧の食事は精進料理と呼ばれ、お肉や魚を一切使いません。野菜や豆料理を中心にしたとても質素な食事です。しかし、そんな質素な食事ですが、とても手間暇がかけられており、作り手が、いかに食べる人に美味しく食べてもらえるかということを考え、工夫されている様子が放送されていました。
 今の世の中、私たちの周りには美味しい食べ物が沢山あります。そして、そのことが当たり前のように、美味しくなければ、「嫌い」だとか「美味しくない」と文句を言うことが多いように感じます。自分達で「美味しい」とか「美味しくない」と食べ物を選ぶ生活を送っているのではないでしょうか。

 そんな生活をしている私たちに「美味しくいただく」という言葉は、私たちが忘れてしまった「何か」を教えてくれているように感じました。どんな食事も、食べる人の心の持ち方一つで変わるのかもしれませんね。

第20回

2014年11月21日

 全校の皆さんおはようございます。朝夕めっきり寒さを感じる季節になりました。この朝夕の寒暖の差が、季節の移り変わりを感じさせてくれます。

 さて今朝は、法語カレンダーの言葉を紹介したいと思います。今月の法語カレンダーに、このような言葉が書かれています。

  「衆生(しゅじょう)にかけられた大悲(だいひ)は無倦(むけん)である」

これは親鸞聖人が書かれた『正信偈(しょうしんげ)』の言葉を紹介したものです。

「煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」

 「阿弥陀如来の願いの光は、常に全ての人を照らしているのですが、自分の心の中の煩悩が眼(まなこ)をさえぎって、その願いの光が見えていない」という意味の言葉です。
 さて皆さんはこの言葉を聞いて、どのようなことを感じますか。煩悩に眼がさえぎられ、大切なことに気づけないことは、私たちの生活の中にたくさんあるように思います。例えば、周りの人から怒られたり注意を受けたりした時はどうでしょうか。その指摘は、大切なことを気づかせようという周りの人からの働きかけであることが多いのですが、怒られることや注意されることが苦手な私たちには、その願いに気づけないことはありませんか。また、辛く苦しい出来事を前にした時はどうでしょうか。その体験がどれだけ自分の成長に繋がるとしても、辛い事や苦しいことに弱い私達は、そのことを避けたり逃げたりしてしまうことはありませんか。私達の周りで起こる物事を、自分都合のよいように捉え、自分の都合の悪いことには目を背けたり、目を閉じたりしてしまうのです。それが眼をさえぎる自分の煩悩の働きです。そして、大切なことに気づかせようとする周りの働きを見えなくしてしまうのです。

 私達の周りにある様々なご縁は、阿弥陀如来が私達に大切なことに気づいて欲しいという願いの働きかけなのです。その一つひとつのご縁に目を向け、大切に受けとめていける私になりたいものです。

第19回

2014年11月14日

 全校の皆さん、おはようございます。今週、飯田女子高校では佐々木正先生を講師にお迎えし、報恩講がお勤めされました。『親鸞聖人に学ぶ生まれた意義と生きる喜び』をテーマに、「出遇い」を通した「喜び」についてお話をして下さりました。今朝はその「出遇い」について、お話したいと思います。

 親鸞聖人は二十九歳の時に、師法然上人と出遇い、念仏の教えを聞きました。その時の「喜び」を、次の様に表しています。

 「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくして已に聞くことを得たり。」
                                                       『教行信証』総序より

 親鸞聖人は「本当に遇うことが難しいものに、今私は遇うことができた。本当に聞くことが難しいものであるのに、私は已に聞くことができた。」 と、法然上人と教えに出遇えたことを、奇跡的で尊いものであったと受けとめられています。また、「遇いがたくして」、「聞きがたくして」とあるように、この「喜び」のもとには、比叡山での二十年間の修行など、真の道を求める中で経験してきた、迷いや苦悩を重ねてきた長い道のりがありました。しかし、これまでの困難であった道のりも、親鸞聖人にとっては、「出遇い」に導く「縁」であったと、受けとめられているようにも感じます。挫折や苦悩との「出遇い」があったからこそ、親鸞聖人にとって法然上人との「出遇い」が、かけがえのないものになったのではないでしょうか。

 私たちの人生も「出遇い」の連続です。「この人と出遇えてよかった。」と思うことがあれば、「出遇わなければよかった。」と思うことがあります。時には「なぜ自分だけ。」と思うような辛い経験との「出遇い」もあるでしょう。しかし、親鸞聖人と法然上人の「出遇い」から考えてみると、自分にとって都合の良い「出遇い」も、悪い「出遇い」も、この人生の中で巡りあうことが難しく、また、私の人生を深め、「喜び」へとなるきっかけを与えて下さるのではないでしょうか。

 自分と周りとの「出遇い」一つひとつが、自分の人生にどんな意味を持つのか。また、自分にとってかけがえのない「出遇い」とはどんなものなのか。親鸞聖人のご命日をきっかけに、自分の生き様を見つめる大切な行事、報恩講がお勤めされた今だからこそ、今一度考えてみたいものです。

第18回

2014年10月31日

 全校のみなさん、お早うございます。先日、飯田でも初霜が観測されました。季節の移り変わりを肌で感じるようになりました。

 さて、今週月曜日に「薬物講演」でダルクの方々からお話をお聞きしました。みなさんはどのような感想を持たれたでしょうか。ダルクの方々は以前に薬物を使用し、薬物依存の経験をされた方々です。施設に入り、薬物依存から抜け出すことを目的にされています。そんな方々のお話は説得力と恐さがあったと思います。
 私はそんなお話の中で、「薬物は自分の好きな物の一番頂点に立つ」という言葉が印象に残りました。寝ることや食べることよりも上の欲望となり、その欲望を満たすことが最も大切になる。家族や友人よりも大切な物となり、そして、その欲望を満たすためになんでもするようになる。昔、薬物の危険性を訴えるTVコマーシャルがありました。「人間やめますか、それとも覚醒剤やめますか」。耳に残るフレーズだったのでよく覚えています。「人間をやめる」そのときは深く考えることもありませんでしたが、こうして講演をお聞きして、改めて考えることは、薬物は一人の人間としての「尊厳」をも奪いかねないものだということです。人として尊い命を生きる私たちの全てを崩していってしまうものが薬物なんだと思いました。

 「薬物を辞めることはできない。そして、一人で克服することはできない。周りの人の支えがなければ辞められない」とお話しされていました。人間の弱さと、そして、一人では生きていくことができず、誰かの支えが必要なんだということを、改めて教えていただいたように思います。

第17回

2014年10月24日

 全校の皆さんおはようございます。10月も後半になり、肌寒く感じられる季節となりました。体調管理をしっかりして、学校生活を送りたいものです。

 さて今朝は、蓮の花「蓮華」のお話をしたいと思います。先月、2年生の行事で東本願寺に研修が行われました。その東本願寺の周りの堀に、蓮の花が咲いていたことに気づいた人はいるでしょうか。東本願寺の本堂の中にも、蓮の花をかたどった飾りが様々なところで見られました。本校の和室に安置されている阿弥陀様にも「蓮華座」という蓮の花をかたどった台座が使われています。また、仏教の教えにも「分陀利華(ふんだりけ)」という、蓮の花のお話が出てきます。このように、仏教では蓮の花をとても大切にしているのです。
 ではなぜ、このように蓮の花を大切にするのでしょうか。それは、蓮の花を通して、私たち人間の姿を見つめることができるからです。蓮の花は、池や沼などの泥の中に根を張ります。そこから茎を伸ばし、水の上に美しい花を咲かせます。その花の美しさは、汚い泥の中から咲いたとは思えないほどの清らかさがあるのです。
 この蓮の花が咲く過程は、私たち人間が生きる世界に重ねることができます。私たちの生きる世界は煩悩が溢れる泥の中のような世界が広がっています。「あれがしたい」「これがほしい」「あのようになりたい」と自分の中から止めどなく欲が溢れてきます。また、自分の思い通りにならなければ腹を立て簡単に周りの人を傷つけます。そして自分のしたことに後悔を繰り返します。そんな煩悩にまみれた汚れた世界に私たちは生きているのです。しかしそんな汚れた世界に生きているからこそ、私たちは蓮の花のような美しい花を咲かせることもできるのではないでしょうか。その煩悩が溢れる世界で、煩悩を捨てられないで苦しんでいる私たちだからこそ、そのことに気づかされ自分を見つめ向き合うことで大切なことに気づいてゆけるのです。

 私たちの周りで起こる「悩み」や「苦しみ」など様々な出来事は、自分を見つめる上でとても大事な材料となります。その一つ一つの出来事から目を背けず、向かい合いながら毎日をおくりたいものです。

第16回

2014年10月17日

 全校のみなさん、お早うございます。心配された台風も過ぎ、運動会を開催することができました。雨のため午前中の競技で終了することになり、残念でしたが、お疲れ様でした。

 今週の12日から14日にかけて日本を横断した非常に強い勢力を持つ台風19号が日本各地に大きな傷跡を残しました。先週の18号と連続した大雨によって地盤が弛み、大きな被害をもたらしました。私は連日、台風の進路や速度をニュースやネットで何度も確認していました。台風がどのような進路を通り、いつ長野県を抜けていくのかばかりを気にしていたからです。「早く台風が過ぎて欲しい」、理由は学校が日程通り進んでほしかったからです。日程が変わることによって、「自分の都合」が変わってしまうからです。ニュースでは大雨と暴風によって被害を受けている地域や人々の映像が流れていました。しかし、私はそんな困っている人達のことよりも、自分の都合ばかりを考えていました。翌日、台風は過ぎ、学校は通常通り行われました。学校に行くと「なぜ、今回は休校にならないの」「もっとゆっくり台風が過ぎれば休校だったのに」という会話が間こえてきました。みなさんの中にも「学校が休みだったら良かったのに」と考えた人も少なくなかったのではないでしょうか。

 先週の法話の中でもあったように自然は人間の力ではどうすることもできないのですが、その自然をも「自分の都合」で考えてしまう私たちがいるようです。運動会の天気もまた同じではないでしょか。運動会を続けたい人には恨みの雨、早く帰りたい人には恵みの雨。でも、そのどちらもが「自分の都合」であることを忘れないようにしたいものですね。

第15回

2014年10月10日

 全校の皆さん、おはようございます。今週の月曜日は台風18号が接近したため、休校になりました。この後の三連休にも台風19号が接近するようです。引き続き警戒していきたいものです。

 さて、9月27日に木曽にある御嶽山が突然噴火しました。この日は土曜日で天気が良かったこともあり、沢山の方が御嶽山に登っていたそうです。この噴火で55人の方が犠牲になり、今だ行方不明の方もおられます。飯田にも火山灰が飛んできました。皆さんも連日のニュースや新聞を通して被害の大きさを知ったのではないでしょうか。
 私たちの暮らす長野県は多くの山々に囲まれています。緑豊かな自然の温かさから、癒されることが多くあります。その一方で自然は突如私たちに牙をむけることがあります。今回の噴火や土砂災害などで多くの尊い命が奪われました。自然は、私たち人間を決して苦しめようと荒れているわけではありません。ただ、自然の法則に従っているだけなのです。その中で私たち人間は、時代が進み技術や科学が発達するに連れて、いつの間にか、自然を自分たちの力でコントロールし、思い通りにすることができると考えてしまっているのかもしれません。自分たちの都合で自然を支配し、または破壊し、私たちの生活の豊かさに変えているような気がしてしまいます。

 今回の噴火を受けて、自然の脅威を再認識したのと同時に、私たち人間がどんなに進化し、力を付けても、大自然の前では本当に無力なんだと痛感させられました。自然災害を恐れる気持ちもあれば、自然を敬い愛する気持ちも忘れてはいけないと感じます。これが自然の中で生きる私たちと、自然との繋がり方なのではないでしょうか。

第14回

2014年10月3日

 全校の皆さんおはようございます。10月に入り秋の深まりが感じられる季節になりました。飯田下伊那でも果物の収穫が始まります。私たちも毎日の生活の中で学び、収穫の多い季節にしたいものです。

 さて、今朝は蓮如上人の言葉を紹介し、自分を見つめてみたいと思います。蓮如上人とは、室町時代の浄土真宗の僧侶で、浄土真宗の中興の祖とも呼ばれる人物です。その蓮如上人の御一代記聞書に、このような言葉が残っています。

 蓮如上人が法敬坊に、「 まきたてということを知っているか 」とお尋ねになりました。法敬坊が、「 まきたてというのは、畑に一度種をまいただけで、何一つ手を加えないことです 」とお答えしたところ、上人は、「 それだ。仏法でも、そのまきたてが悪いのである。一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと思うのが、仏法についてのまきたてである。心に思っていることを口に出して、他の人に直してもらわなければ、心得違いはいつまでたっても直らない。まきたてのような心では信心を得ることはできないのである 」 と仰せになりました。
 『蓮如上人御一代記聞書』より

 この蓮如上人の言葉から私は考えさせられました。畑にまいた種は、そのままほったらかしにしておいても美しい花を咲かせることはできません。芽が出る前に種を鳥に食べられてしまうかもしれませんし、水不足や栄養不足で枯れてしまうかもしれません。種をまき、鳥から種を守り、水をやり、肥料をやり、他にも様々な働きかけがあってはじめて、美しい花を咲かせるのです。それは人間にも同じことが言えるのです。人間は過ちや間違いを繰り返しながら生きています。その過ちや間違いを周りの様々な人が指摘し注意してくれることで、新たな発見があり成長することができるのです。しかし、時に人は周りの指摘や注意を自分の事として受け入れることができない事があります。そんな自分の姿勢を見つめよとおっしゃっているのではないでしょうか。

 周りの人からの指摘や注意は、私を見つめるための大事なアドバイスであり、私にかけられた願いではないでしょうか。そんな願いを大切に受けとめられる私になりたいものです。

第13回

2014年9月19日

 全校のみなさん、お早うございます。来週より2学期中間テストが始まります。大会や発表会のあるクラブもありますが、勉強とクラブをぜひ両立させたいものですね。

 昨日、芸術鑑賞でミュージカル『ブッダ』を見ました。原作は手塚治虫の漫画『ブッダ』です。長編アニメとして映画にもなりました。今から2500年前のインドのお話です。後に「ブッダ」となる若き王子「シッターダルタ」が「生きるとはなにか」「人間とはなにか」を求め、様々な出会いや別れを通して、成長していく姿が描かれています。
 当時のインド社会を支配していたのはカースト制度でした。生まれながらに階級に分けられ、その階級よって職業や身分が決められ、厳しい秩序で支配されていました。劇中に出てきた登場人物達を見てもその生き様や当時の様子が表現されていたように思います。

 「ミゲーラ」は奴隷出身の女盗賊でした。彼女を苦しめたものはなんだったのでしょうか。
 同じく奴隷出身の「タッタ」。コーサラ国に家族を殺害され、復讐に燃えていた「タッタ」の苦しみはなんだったのでしょうか。
 シャカ族を憎み、徹底して滅ぼす道を進んだ「ルリ王子」。なぜそれほどシャカ国を憎んだのでしょうか。また、実の母を奴隷小屋へ追放した彼の苦しみなんだったのでしょうか。
 周りから怪物扱いされたヤタラ。彼の心の苦しみ、そして気付いたことはなんだったのでしょうか。

 登場人物それぞれに苦しい悩みを抱えていました。共通して言えたこと、それは「なぜこんな苦しいおもいをしなければならないのか」「なぜこんな世に生まれてきたのか」ということです。とても大きな投げかけがあったように感じます。あなたはなぜ生まれてきたのでしょうか。

第12回

2014年9月12日

 全校の皆さん、おはようございます。今週は2年生の東本願寺研修が行われました。班担の先生方との座談を経験したり、勤行や大きな御堂を掃除したり、親鸞聖人のみ教えに触れながら、普段とは違った環境の中で学び、感じ得られたものがあったのではないでしょうか。

 さて、東本願寺は正式には「真宗本廟」と言います。この名前にはただ単に「お墓」や「寺院」というだけではなく、浄土真宗を開いた親鸞聖人の教えを聞きながら自分を見つめていく「根本道場」という意味があります。そんな東本願寺での研修の中心の場となる御影堂の正面に、「見るに真」と書いて、「見真」という言葉が掲げられています。2年生と3年生の中にも、目にとまった人はいませんか。
 私は大学時代、友達と東本願寺を訪れた時、この「見真」を前に、「真実を見つめる。今の現実から目を離すな、逃げるなって私たちに語りかけているのかな。」と言ったことがありました。すると友達に、「これは「真を見つめる」って意味じゃない?外に目を向けるのではなくて、内側に目を向けて、今の自分の姿を見つめましょうって言っているんだよ。」と言われ、ハッとしました。いつも私は「今の社会はどう」とか、「現実はこうだから」とか、自分の外側ばかりに目を向けていたのだと気づかされました。人間関係においても、周りの友達の姿や反応ばかりを気にして、自分を見失っている姿がありました。
 私たちは普段、自分の事は自分が一番分かっているようで、実は分かっていないことが多いのではないでしょうか。

 今回改めて「見真」という言葉を見た時に、あの頃の私を思い返すことができたのと同時に、東本願寺は自分を見つめ、歩んでいくきっかけを与えてくれる場所だと感じました。みなさんにとって東本願寺はどのような場所になったでしょうか。

第11回

2014年9月5日

 全校の皆さんおはようございます。9月に入り、朝夕の寒暖の差が感じられる季節になりました。体調管理をしっかりしていきたいものです。

 さて今朝は「時を告げる鐘」のお話をしたいと思います。時を告げる鐘とは、まだ時計が普及していなかった昔に、お寺の鐘をついて地域の人に時間を伝えた習慣のことです。朝の6時の「明け六つ」と夕方の6時の「暮れ六つ」に鐘をつき、時間を伝えていました。時計が普及し、各家庭で時間を確認できるようになり、多くの地域ではその習慣もなくなっているのですが、田舎にいくと、いまだにその習慣が残っています。私の実家の寺院でも、朝の6時になると11回の鐘をついて、朝の訪れを地域の人に伝えています。
 先日その鐘つきから自分を見つめる機会をいただきました。父親から頼まれ、朝の鐘つきを任されたときのことです。朝早起きをして鐘をつかなければならないため、私は鐘をつくことがとても面倒くさく感じていました。「いまどき鐘をつかなくても時間はわかるはずなのに・・・」とか「なぜ無駄なことを続けているのか」という想いを持ちつつ鐘をつきました。その後、寺院に戻りお参りをしようとした時のことです。朝のお参りにこられた一人の方に、次のようなお話をしていただきました。

 「いつも鐘をついていただきありがとうございます。私は毎日、お寺のご住職さんのつく鐘に力をいただいています。朝にこの鐘の音を聞いて一日の始まりを感じ、今日一日頑張ろうという気持ちになります。朝の鐘の音は私の生活にかかせないものなんです。」

 その話を聞き、私は恥ずかしくなりました。「時を告げる鐘」など、この時代には必要ない無駄な行為だと思っていたことが、地域の人にとってはかけがえのないものとなっていたのです。時間を伝えるという本来の役割以上に、地域の人々の生活の一部として大事にされていたのです。そのことに気づかされました。

 私たちの周りには、他にも同じような物事はないでしょうか。自分の価値観では「必要ない」とか「無駄」と感じているものが、周りの人の中では大切にされていることがたくさんあるように思います。周りの人の見方や考え方に触れる中で、自分の価値観を見つめていきたいものです。

第10回

2014年8月29日

 全校のみなさん、お早うございます。二学期が始まりました。夏休みで生活リズムが崩れた人も規則正しい生活に戻るよう心がけたいものですね。

 夏休み中、連日ニュースで日本各地で起こった災害を報道されていました。最近では広島で起こった土砂災害では、多数の方がお亡くなりになり、また現在も行方不明者が出ており、捜索が続いています。全校朝礼の校長先生のお話にもあったように、日本は災害大国と言われ、過去にも地震・雷・大雨・洪水・津波等で被害にあわれた方が沢山おられます。その中には今回のように災害によって命を落とされた方もいます。みなさんはこういった災害などで被害にあわれたり、亡くなられたという事を見たり聞いたりして、どのように感じていますか。私は「こんなに沢山の人が亡くなったんだ、かわいそう」という感情はあっても、どうしても自分のことのように受け止めることができません。それは、自分の身近であった出来事ではなく、自分の身内が被害にあったわけでもないからです。長野県が大雨に見舞われ、木曽で土砂災害が起こったとき、実家から「大丈夫かい?長野が大雨で大変なことになっていると聞いたよ」と連絡がありました。私は「大丈夫、私が住んでいる所とは違うところだから」と答えました。よくよく考えてみると、「自分のいないところだから大丈夫」。自分の事として受け止めていない私がいました。木曽の土砂災害でも若い命が亡くなりました。そのことを知っているにもかかわらず、「私は大丈夫」と思ってしまう私がいたのです。

 大自然の脅威による災害はいつ私たちの近くで起こるかわかりません。しかし、私たちは災害を自分のことのように受け止めることがなかなかできないのが現状のようです。今一度「いのちの尊さ」、そして「私の心」を見つめ直してみたいと思います。

第9回

2014年7月18日

 全校の皆さん、おはようございます。今学期も残り2日となり、来週から夏休みになります。1学期の振り返りをしつつ、夏休みを有意義に過ごしたいものです。

 さて先週「フレッシュガール~この校舎にありったけの笑顔と感謝をこめて~」をテーマとし、女子高祭が行われました。この仮校舎で行う最初で最後の女子高祭であり、日程も昨年より1週間早い中での開催となりました。
 準備を始めた当初、こんな声が聞こえてきました。「時間がなくて間に合わない。」「校舎が違うから不都合なことが多い。」準備できる期間も短く、初めての会場となる仮校舎での準備は、皆さんも先生方も大変だったことと思います。しかしその中で、準備のため毎日学校の中を走り回っている生徒会役員の人達の姿がありました。毎晩のように遅くまで学校に残って、準備を進めていた生徒会の顧問の先生方の姿がありました。クラス展示のため、土日も学校に来ていた生徒の姿がありました。限られた時間の中で、精一杯活動する姿を多く見ました。この皆さんの姿から、限られた時間の中で全力で取り組むこと。与えられた環境の中で、皆で智恵を出し合い、より良いものを作りあげること。そこに飯田女子高校文化祭の良さ、伝統があるのだと感じました。

 場所や準備期間、なにもかもが例年と異なった今回の女子高祭でしたが、この仮校舎での女子高祭だったからこそ、学べたことがあったのではないでしょうか。環境も勝手も違う中、全校の皆で一丸となって頑張れたこの女子高祭は、私たちにとって大きな財産となったと思います。この経験を私たちにさせてくれたのは、他でもないこの仮校舎なのではないでしょうか。

 仮校舎で過ごす時間も残り半年となりました。この限られた時間の中で私たちには何が出来るのか、女子高祭という大きな行事が終わった今だからこそ、考えてみたいものです。 

第8回

2014年7月4日

 全校の皆さんおはようございます。7月に入り少しずつ夏の暑さが感じられる季節となりました。夏の暑さに負けないように体調管理をしながら毎日を過ごしたいものです。

 文化祭を1週間後に控え、学校の至る所で準備をしている光景を見かけます。様々な係の仕事、文化クラブや運動クラブなどの仕事、展示や屋台などのクラスの準備など、多くの人が忙しい毎日をおくっているように思います。
 でも、この忙しい時間を過ごすということは、とても素晴らしいことではないでしょうか。忙しいということは、様々な場所で自分の力を必要とされているということです。そして、その仕事をやりきることで、大きく成長した自分へと変わることができるのではないでしょうか。

 相田みつをさんがこんな言葉を残しています。
 「花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 根は見えねんだな」

 私達は植物を見ると、花に目がいきがちです。でも美しい花を支えているのは、目立たない幹や枝や葉のおかげであり、見えない根っこのおかげなのです。幹や枝や葉のような目立たない脇役、根っこのような表に出ない裏方のような存在。そんな様々な働きが、大きく美しい花のみなもととなるのです。この言葉はそんな大切なことに気づかせてくれます。
 文化祭の皆さんの仕事はどうでしょうか。目立たない脇役のような仕事や表に出ない裏方の仕事をする人もいるでしょう。でも、どの仕事も、大きな花、つまりは素晴らしい文化祭を作り上げる上で欠かすことのできない仕事なのです。

 文化祭まで、あと1週間しかありません。でも見方を変えると、あと1週間も時間があるのです。残りの1週間という時間を、自分にできる精一杯の力で仕事に取り組みたいものです。そして、たくさんの人の笑顔の花を咲かせられるような、そんな文化祭を作り上げたいものです。

第7回

2014年6月20日

 全校のみなさん、お早うございます。来週からは期末テストが始まります。早めの準備を心がけるようにしたいものですね。

 さて、先週クラスマッチが2日間にわたって行われました。どの競技も白熱した試合が行われ、会場は熱気に包まれました。そんなクラスマッチから様々な光景を見ることが出来ました。クラスメイトを必死に応援する仲間達。生徒よりも大きな声で応援する先生。クラスの輪を超えて学年の仲間を応援したり、学年の輪を超えて応援する姿もみかけました。手作りの旗や横断幕を作っているクラス。応援歌を作っているクラスもありました。どのクラスにも黒板にはメッセージが書かれてあり、みなさんのクラスマッチにかける思いをみることができました。
 そんな中で、特に印象に残っている光景があります。それはバレー競技で見かけました。コートに立っている選手のほとんどが現役のバレーボール部員や経験者でした。その中にまったくバレー経験のない生徒がいました。ただ立っているしかできない彼女に無情にもサーブが飛んできました。彼女は上手くとることができませんでした。申し訳なさそうに手を合わせて頭を下げる彼女のところに、一人の生徒が駆け寄り、「大丈夫だよ」と声をかけ、そっと肩を抱いていました。コートにいる他の仲間も彼女の元に駆け寄り励ましていました。その後、何度もそのような光景があったのですが、はじめて彼女がレシーブを返すことが出来たとき、コートの選手だけでなく、応援するクラス全体が喜びの輪に包まれました。そして相手チームの応援団や周りの見学している人からも拍手がおこりました。そんな光景を目にして、試合の勝敗だけでは味わえない、心温まるような思いがしました。

 クラスの「まとまり」や「絆」を感じることができたクラスマッチですが、私のクラスや友人だけにとどまらず、私に働きかけてくれる「周りの温かさ」や「優しさ」を感じられる、そんな人になりたいものです。

第6回

2014年6月6日

 全校の皆さん、おはようございます。今週は衣替えが行われ、校舎の中でも夏服姿が多く見られるようになりました。例年よりも少し早い、夏の訪れを感じる今日このごろです。

 さて、本校では毎日の週番活動の中で、三年生が朝と昼に、職員室にいる先生方にお茶を出してくれます。先日、ある三年生が「先生、温かいお茶はいかがですか。」と言ってお茶を出してくれました。私はこの「温かいお茶」という言葉に大変心が温まりました。その日の気温が高かったからでしょうか。「温かいお茶ですが、いりますか。」というニュアンスだったのかもしれません。または「湯飲みが熱くなっているので気をつけて下さい。」と、私を気にかけた心配りだったのかもしれません。相手の立場を考え、たった一言「温かい」という言葉を添えるだけで、お茶をもらう側の心が温まるということを、この生徒から教えてもらいました。

  たった一言が人の心を傷つける  たった一言が人の心を温める

 ある教室に行くと、この言葉が額に入れられ掲げられています。この言葉のように、たった一言が人の心を温めたり、勇気を与えたり、人を元気にさせたりすることがあります。それと同時に、たった一言が凶器となって人を傷つけ、人間関係がこじれてしまうこともあるように思います。皆さんも普段の生活の中で、思い当たることがあるのではないでしょうか。

 普段、私たちが何気なく使っている言葉の中にも、人の心を温める言葉もあれば、人を傷つける言葉もあります。今一度自分の言動を見直し、言葉一つひとつを大切にできる私でありたいものです。

第5回

2014年5月30日

 全校の皆さんおはようございます。季節の変わり目であり、朝の日差しが一段と強く感じるようになりました。太陽の明るさと同じように明るい笑顔で毎日の生活をおくりたいものです。

 さて今朝は「支え」について考えてみます。飯田女子高校の前に、毎日、朝と夕方に多くの車が往来するのを目にします。朝は生徒を送ってくる親、忘れ物を届ける親、寝坊した娘を遅刻させないためにかなりのスピードを出してこられる親御さんもおられます。夕方になると自分の娘を心配し、長い時間学校前の駐車場で待っておられる親御さんを目にします。そんな親に対して、皆さんはどの様な気持ちで接しているでしょうか。当たり前のように親の車に乗り込み、携帯をいじっている人や、イヤホンをして音楽を聞いている人を見かけます。また迎えに来てもらっているにもかかわらず「もっと早く迎えに来てよ」とか「恥ずかしいから長い時間学校で待っていないでよ」など、文句を口にする人も見かけます。その光景から、私は考えさせられました。
 私たち人間は周りの人に支えられながら生活しています。家族の支え、友人の支え、先生の支え、その他私を取り巻く全てのものが私をいかしてくれているのです。しかし、そんな支えに私たちは鈍感になっています。支えてもらっていることに気づかないことや、毎日の生活の中で当たり前のように感じ感謝できないことはないでしょうか。
 私たちが支えられているということは、私が生きることを願われているということです。あなたを取り巻くたくさんの人が、あなたに頑張ってほしい、輝いてほしいと願っています。その暖かな願いに包まれて私たちは毎日を過ごしているのです。

 自分の生活をよく見つめてみると、自分が気づいていない周りからの「支え」が溢れています。そんな様々な支えを敏感に感じ取りながら毎日の生活を過ごしていきたいものです。

第4回

2014年5月16日

 全校のみなさん、お早うございます。今週は連日夏日が続きました。まだまだ朝夕の寒暖の差も激しいです。体調を崩さないように気をつけたいものですね。

 さて、みなさんはこんなCMがあるのを知っていますか? 「お父さんとお母さんがいるから僕がいるんだ。お父さんとお母さんはおじいちゃんとおばあちゃんがいるからいるんだ。あたりまえだけど不思議だなぁ」小学校低学年の男の子のが仏壇の前でサッカーボールを持ちながら、画面に出てくる似顔絵を見ながら話すシーンです。仏教の授業や釈尊降誕会のHRでも同じようなお話を聞くことがありませんでしたか?

 私が生まれてくるにはお父さんとお母さんが必要、お父さんとお母さんにもお父さんとお母さんが必要。そうやって考えて行くと、人類が誕生するところまでさかのぼると、すごい数の人が私一人が生まれるために存在してくれているのです。そして、その中の誰か一人が欠けても私という「いのち」はこの世に生まれてくることがなかったのです。そうやって生まれてきた私からまた後世に「いのち」は繋がっていくのです。
 では、私が子供を産むことがなければ、私からつながる「いのち」は途切れてしまうのでしょうか?私が出会った人が私の存在によって救われ、他の誰かと結ばれ、子供が生まれ、その子供が「いのち」の繋がりを続けていく。決して、私が直接子供を授かることがなかったとしても、私がこの世に存在することでつながる「いのち」がきっとあると思います。

 「天上天下唯我独尊」、私という「いのち」はかけがえのない存在です。そんなかけがえのない私の「いのち」こそ尊いのだと、お釈迦様は言われました。釈尊降誕会をお勤めした私たちだからこそ、今一度「いのちの尊さ」を考えてみてはどうでしょうか。

第3回

2014年5月2日

 全校の皆さん、おはようございます。新学期がスタートし、1ヶ月が経ちます。新しい環境にもそろそろ慣れてきたでしょうか。

 さて、新入生の皆さんは飯田女子高校に入学し、新しいクラスや友達、先生と出会いました。2年生はクラス替えにより、1年生の時のクラスの友達と別れ、新たなクラスの仲間と出会いました。三年生は修学旅行でシンガポールに行き、異国の文化や現地の人々と出会ったり、様々な体験をしたりして来ました。人やもの、場所との出会い。私たちは様々な出会いを繰り返しながら人生を歩んでいきます。しかし出会いは私たちにとって、必ずしも良い出会いばかりではありません。

 お釈迦様は35歳の時に、すべての出来事は「縁」によって成り立っていると悟られました。「縁」があるから出会い、別れも「縁」によっておこるもの。どんなに一緒にいたくても、別れる「縁」があれば別れる。どんなに一緒にいるのが嫌でも、一緒にいる「縁」があれば一緒にいる。「縁」は、私の力ではどうすることも出来ないものなのかもしれません。

 新入生の中には飯田女子高校に入学するはずではなかったと思っている人もいるでしょう。2年生の中には、「クラス替えをしたくなかった。仲の良い友達と離れたくなかった。」と感じている人もいるはずです。しかし、これらの出会いも別れもすべて「縁」によって結ばれているのです。

 私たちは普段、自分の都合ばかりで出会いの善し悪しを決めてしまいがちです。その出会いひとつひとつに込められた意味に気づくためにも、与えられた「縁」の中で、精一杯生活することが大切なのではないでしょうか。

第2回

2014年4月25日

 全校の皆さんおはようございます。今朝は、お釈迦様の歩みを紹介し、自分の生活を見つめてみたいと思います。

 お釈迦様は釈迦族の王子として誕生しました。お釈迦様の王宮での生活は、物質的な面で大変豊かなものでした。私たちの一般的な感覚からすれば、何一つ不自由がないと思われる生活でした。しかしお釈迦様はその中でしばし思い悩み、ふさぎこんだといわれています。それを心配した父親である王は、その憂いを晴らそうとして、さらに様々な娯楽や贅沢な生活を用意します。しかし、それでもお釈迦様の悩みはいっこうに晴れることはありませんでした。 『釈尊生涯の教え』より

 さて、この話を聞いて皆さんはどんなことを感じますか。お釈迦様のような、王族として誕生し、なに不自由のない暮らしと聞くと、「羨ましい」とか「そんな暮らしができれば幸せになれるのに」と考えてしまうのではないでしょうか。自分の欲しいものが常に手に入る、食べたいものをいつでも食べられる、地位も名声も与えられる。そんな生き方が幸せに映ってしまうのではないでしょうか。
 では、なぜお釈迦様は、その王宮の生活に思い悩み、ふさぎこんでしまったのでしょうか。それは人間が果てしない欲望の持ち主であることに気づいたからです。私たち人間は、ほしいものが手に入ると幸せな気持ちになります。しかし、その気持ちは一時的な満足でしかなく、時間が経つにつれ、また別のものを求めてしまいます。その繰り返しです。そんな、満足できない心に思い悩まれたのです。物質的な豊かさを求める先に、本当の幸せはあるのでしょうか。
 現代の私たちが求めている社会も、このお釈迦様が思い悩まれた世界と似ているように思います。物が溢れている社会、便利で快適な社会、そんな社会を私たちは求め、作り出そうとしています。そして、その社会こそ「豊かな社会」とか「幸せな社会」だと思い込んではいないでしょうか。でも、そこに本当の幸せはあるのでしょうか。そんな社会を求めるあまり、大切なことが失われていないでしょうか。

 2500年前のお釈迦様の教えから、現代の私たちの様々な問題を見つめることができます。お釈迦様の教えを通し、自分の歩みを見つめていきたいものです。

第1回

2014年4月11日

 全校のみなさん、お早うございます。189名の新入生を迎え、新しい飯田女子高校の1年がスタートしました。

 先週行われた入学式では緊張した新入生のみなさんがいました。多くの方から「入学おめでとうございます」と声をかけられる度に、お辞儀をしていた姿が印象的でした。校長先生をはじめ、沢山の方から祝辞をいただきました。1年生のみなさんは理事長先生がお話しされた「さくら」のお話を覚えていますか?

 「さくらには力強さを感じる。晴れていても、雨が降っていても、春になると必ず花を咲かせる。そんな力強さがある。」また、「さくらは早く咲こうが、つぼみであろうがさくらはさくら。早いとか遅いとか、どちらがいいと差別もしない」。そんなお話でした。
 この話を私たちに置き換えて考えてみると、飯田女子高校の学校生活は楽しいことや嬉しいこともあれば、苦しいことや悲しいこともあります。それらを経験・体験し、女性としての力強さを身につけていきます。また、1年生は慣れ親しんだ中学校の生活から新しい環境に変わりました。そんな環境の変化にすぐに馴染める人もいれば、なかなか馴染めない人もいます。クラス替えで新しい関係を築かなければならない2年生のみなさんは、すぐに友人ができる人もいれば、なかなかクラスに馴染めずに苦しむ人もいます。3年生なら、早くに自分の進路が決まり、その進路に向かって頑張っている人もいれば、なかなか自分の進路が見えず、悩み迷う人もいるのです。

 どんな人達も変わらないこと。それは、みんな「飯田女子高校の生徒である」ということです。さくらが「つぼみ」でも、咲いていても、さくらがさくらであるように、どんな私でも飯田女子高校の生徒に変わりはないのです。「悩み苦しむ」そんな私がいてもいいのではないでしょうか。

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