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学校法人 高松学園 飯田女子高等学校

心の広場

Heart of the Square

朝の法話

第30回

2017年2月17日

 皆さんは高校を卒業して、2年もすると成人と呼ばれるようになります。成人とは大人になるということです。しかし、そもそも大人と子どもとの境はどこにあるのでしょうか。19歳と20歳との間にあるのでしょうか。それとも、顔つきや体格でしょうか。どれも曖昧で、しっかりした境界線になるものなど見つかりそうにありません。大人だと呼ばれる年齢の人でも、子どもっぽい人はたくさんいますし、歳は若くても、立派に大人っぽい考え方をする人もいます。では、本当の意味で大人になるとはどういうことを意味するのでしょうか。

 よく、子どもはわがままだという人がいます。わがままというのは、反対されても、間違っていても、自分の思い通りに押し通そうとすることです。わがままな人というと、自己中心的な人、自分の都合の良いことしか考えない人のことをいい、どちらかといえば、悪い意味に使われがちです。

 しかし、例えば、小さい子どもがかわいいのは、なぜでしょう。それは自分に対して正直であるからです。悲しければ泣き、嬉しかったら笑う。自然なことですけれども、このわがままな姿が、子どもの魅力でもあるのでしょう。反面、歳をとるにつれてこの自然さ、素直さ、正直さが失われて、生き生きとした魅力がだんだん消えていく、それが大人の弱点でもあるのです。

 
だからといって、わがままなままで良いわけではありません。親鸞聖人の言葉に、「くすりあればとて、毒を好むべからず」という言葉があります。薬があるからといって、自分から病気になりたいと思う人は誰もいないでしょう。自分の欲望に正直なことは、自然で魅力的なことです。しかし、度を超せばそれは毒でもあるのです。

 大切なことは、わがままな自分をどうコントロールしていくかということなのではないでしょうか。本当の意味で大人になるということは、自分の表現の仕方を知っている人になるということなのです。人の話を聞き、受けとめて、礼儀を持って自分の意見を言える人。自然に自分自身を表現できる生き生きした人になること。このことが大切なのです。

 高校生は、大人と子どもの中間地点に位置しています。だから、大人でもなく子どもでもありません。しかし、着実に時間は流れ、大人への階段を上がっているのです。

 これで今年度の朝の法話を終わります。心に響いた言葉など、何かありましたか?瞑想して法話を聞いたという事実は皆さんの中に残ります。それを大切にしてください。

第29回

2017年2月10日

 先週の金曜日は節分でした。「鬼は外、福は内」と声高らかに豆をまき、災いや病気などを払う行事を行うのが一般的です。翌日は立春。暦の上で春が始まる日を迎えたわけですが、まだまだ、寒い日が続いています。朝の最低気温が氷点下になってしまう中、登校するのは辛いですね。このような寒い朝がまだまだ続くと思うと憂鬱です。

 私たちは寒い朝、「寒い、寒い」とそのことばかりに気を取られてしまっています。確かに、寒いことは私たちにとってあまり心地よいものではないですよね。しかし、よく考えてみると、エアコンやファンヒーターやストーブなどのありがたさ、つまり、温かさの与えてくれるありがたさには、寒い思いをするからこそ、温かいと感じ、それがとてもありがたいことだと感じるのです。こういう何気ない普段の生活の中にある事実は、すべて「縁起」によって生じています。

 釈尊が最初に目覚めたのが「縁起の法」です。釈尊は修行者であった頃、他の五人の修行者と一緒に、断食などの苦行を六年間続けたといわれています。時には、身体が破裂するほどに息を止めたり、無理な姿勢を続けたり、その修行はかなり過酷だったといわれます。修行という名の下に、自ら死ぬことを選ぶかのような生き方をしていたわけです。しかし、ある時、疲れ果てた釈尊がスジャータという村娘の差し出した乳粥を食べたおかげで、健康を取り戻し、極端を捨てた生き方こそが正しい生き方なのだということに目覚めました。

 そして、深い瞑想の中で、自分自身を見つめ続け、現実に起こっている事柄をありのままに見据えることで、それらのすべてが互いに関係し、支え合っているということを見いだしたのです。その縁起の法からみると、寒さがあるからストーブの温かさや春の暖かさを嬉しく感じるのであり、苦しみを乗り越えたとき、楽しさを実感できる喜びを感じるのでしょう。さらに、いつかは必ず死ぬという限りある人生だからこそ、今を大切に生きなければと思えるのです。

 人間という字は、「人」に「間」と書きます。それは人が苦しみや楽しみの間で、また死ぬことと生きることとの間で、悩みながら生きている存在であるということを表しているのかもしれません。

 いずれ死ぬ人生だと考えると、人間の生きているという事実は、本当に頼りなくちっぽけなものに感じられます。しかし、釈尊は頼りなくちっぽけな生きることそのものが尊いことを、本当に大切なことは何かを、私たちに教えてくださっているのです。

第28回

2017年1月27日

 三年生の皆さんには、今回が三年間で最後の法話となります。皆さんの心に響いたお話や言葉があったことと思います。その一つ一つを大事にしてください。

 さて、三年間という高校生活は、今思うと長いようで意外と早く過ぎていったなと思いませんか?この三年間の生活の中で、いろいろな事柄に出会い、様々な人と巡り会い、そしてお別れをしたことでしょう。親や兄弟のように、自分で選んだわけではないのにそのような関係になっている場合もあり、先生や友達のように、何かの機会を通して関係ができる人たちもいます。

 では、なぜ私はこの先生と出会い、この友達と出会ったのでしょうか。考えてみると不思議です。しかし、いずれにしても、その人と出会うことが私や私の人生に対して、意味や方向性を与えることがあったならば、それは喜ばしいことです。
親鸞聖人は「本当の先生や友達との出会いは、困難の上に困難を極める」と和讃に詠んでいます。これは、先生である法然上人との出会いを通して、全く新しい自分に出会えた喜びの表現です。私たちは、どうしたら親鸞聖人のように、本当の友達や先生に出会えるのでしょうか。

 出会いの中には、嬉しいものや悲しいものがあります。嬉しい出会いの方が望ましいと私たちは考えます。しかし、嬉しいか悲しいかにかかわらず、出会い自体がないなら、私の人生は色あせたものになるに違いありません。

 友達とうまくいかなくなったり、喧嘩したり、そんな苦い思いをしたことは誰だってあるでしょう。そして、そんな望ましくない思いをしないために、その人とのつきあいを浅くしたり、避けてしまったりといったことがあったかもしれません。しかし、友達と喧嘩したとき、腹立たしくて、そのときは気づかなかったけれど、後になってよく考えてみると、自分にも悪いところがあったと気づくことがありませんでしたか?たとえ一パーセントでも、自分にも責任があったと思うことがあれば、喧嘩といえども、友達は、私に本当のことを教えてくれたことになります。

 本当の友達とは、本当のことを教えあうことのできる仲だといえます。本当の友達、本当の先生に出会うことができなかったのは、本当のことを聞こうとしない自分自身に原因があるのかもしれません。

第27回

2017年1月20日

 寒さが厳しい毎日です。教室移動のときのひんやりとした廊下から温かい教室に入るのが嬉しくなる毎日です。でも、教室の中で授業を受けているとき、心地よさから睡魔に襲われてしまってはいないでしょうか。こんな時こそ気持ちの持ち方で乗り越えましょう。

 「ウサギとカメ」というおとぎ話では、ウサギとカメが丘の上に立てられた旗を目指して競争し、途中でウサギが道草をしたり、昼寝をしたりしているうちに、つい寝過ごしてしまい、カメがウサギに勝ったというお話です。地道に継続した努力をすることの大切さを教え、そして、それが最後には勝者となることを教訓とするお話です。

 しかし、それが誰かとの競争や戦いの最中でなければ、ウサギのような生き方もすばらしいといえます。別に授業中に居眠りをしていてよいというわけではありませんが、ゴールである丘の上に立てられた旗をめがけて、わき目もふらず、ただひたすら歩き続けるばかりではなく、時には休憩して、疲れを取り除いてから、再び歩き始めるような生き方も大切な気がします。道ばたに美しい花が咲いているのを見つけたら、その花を見て「ああきれいだな」と心和まし、泉があればそのほとりを「良い景色だ」と感動しながら散策し、小高い丘があればその向こうはどうなっているのだろうかと、好奇心いっぱいで登ってみる。そんなふうに心に余裕が持てる生き方も、豊かで充実した人生にするためには必要なのではないでしょうか。

 「道草をしろ」とか、「努力するな」ということではありません。皆さんが仏教の授業の最初に唱えている三帰依文の言葉の中の「仏法聞き難し、今すでに聞く」という言葉を思い出して下さい。「普段の生活の中で、仏さまの教えである真理に目を向けることはなかなかむずかしいことではあるけれど、じつは、いつも私たちは普段の生活の中で真理に出会っている」といわれています。私たちが出会う先生や友達の言葉、道ばたに生えている花の色や香りに至るまで、すべてが私たちに真理に目を向けさせてくれる種なのです。「人が生きる」ということにおいて、決して無駄なことなどないのです。

 どんな小さな出来事でも、一生懸命見たり聞いたり、喜んだり悲しんだりできる。失敗しても、それを意味あるものに変えていく。そんな道草だらけの「ありのままの自分」で少しも困らない、むしろ毎日が私にとって大切なありがたい時間と受け止められる生き方をしたいものです。

第26回

2017年1月13日

 新しい年を迎えることができました。皆さんは新年をどのような気持ちで迎えましたか? 希望や理想を心に抱き、新たな思いでこれまで達成できなかったことに対しても「今年こそは」と決意できたでしょうか。

 ところが、時間が経ち、今頃になると「やっぱり今年も無理じゃないかな」と、後ろ向きの考えになってしまうことがあります。

 『歎異抄』に、「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」という親鸞聖人のことばがあります。

 このことばは、私たちが生まれて死ぬまで、悩み、苦しむことや、様々な問題が厳しくわが身に迫ってきて、気持ちの面で追い込まれてしまうこの現実世界を、家が火に包まれて燃えさかる様子にたとえ、この世界はうそやうわべだけのことばだらけで本当のものがない。念仏の教えだけが真実を語ってくれるという親鸞聖人の思いが込められたことばです。

 「今年こそは」と自分で決めたことなのに、自分の都合を優先して、結局やり遂げられない後ろ向きの自分はいませんか?

 そんな私たちのことを『歎異抄』では煩悩具足の凡夫と表現しています。

 無いものをねだるよりも、現状をしっかり受け止め、大切にすること。「今年こそは」と自分の希望や理想を目指すのも良いかもしれませんが、まずは自分の足下を見ることが必要なのではないでしょうか。そうすることで、凡夫である自分、つまり、自分の思いや自分の都合ばかりを優先させようとする、煩悩にふりまわされ、悪や誤りを犯してしまう平凡な存在である自分自身が見えてくると思います。その自覚にこそ、自分の進むべき本当の道、仏さまが教えてくれる真実の道が見いだされるのではないでしょうか。

第25回

2016年12月16日

 いよいよ今年も残りわずかとなり、地域やお店ではクリスマスやお正月を迎える準備が行われています。その様子を見ていると、一年という時間の流れの早さを感じます。皆さんにとって今年はどんな年でしたか?

「一年の計は元旦にあり」という言葉がありますが、この一年、自分の立てた計画や目標が実現できたという人もそうでない人も、きっといろんな経験を積めた一年だったことでしょう。

 今年一年の生活を振り返ってみると、自分のおこなってきたことの結果が良かったときもあれば、良くなかったとき、あるいはそのおこない自体が間違っていたときもあったことかと思います。
結果が良かったときは、やり遂げた充実感でいっぱいだったことでしょう。でも、間違ったことをしてしまっていたと分かったときには、「あのときああしとけば良かった。もし、違うやり方をしていれば。」とか、「あの選択が間違いだった。こっちを選択しておけば良かったのに。」など、反省や後悔が残ったことでしょう。

 しかし、考えてみてください。たとえ間違ったことをしていて、良い結果が出せなかったとしても、そのおかげで自分の傲慢さや甘さ、弱さに気づかされたのではありませんか?その場合、間違った選択だったとしても、それはそれで、良かったともいえるのではないでしょうか。つまり、いろんな出来事が自分の経験値を高めてくれ、その分だけ自分を成長させてくれているのです。

 念仏の教えは、人生で出遇う全てのものから、教えられ育てられている私であると教えてくれます。飯田女子高校の生徒である私たちは、どんな出来事からも「学ぶ姿勢」を大事にしたいものです。

 親鸞聖人の教えを伝え残してくださった蓮如上人(れんにょしょうにん)という方は、「よきことをしたるが、わろきことあり。わろき事をしたるが、よき事あり。」と語っています。自分でうまくやれたとか、良いことをしたと思っていても、自分の思いに反した悪い結果しか出ない場合がある。うまくやれなかった、悪い事をしてしまったと感じても、それが良い結果をもたらす場合があるというのです。結果に左右されるばかりでなく、自分のやるべき最善を尽くそうとすることが大切だといえそうです。

第24回

2016年12月9日

 皆さんは身近な人の死にめぐりあったことはありますか?私たちにとって大切な人が亡くなったとき、その大切な人は私にとってどのような存在になるのでしょう。

 仏教では、大切な人が亡くなると葬儀を行い、一年後には一周忌、そして、その翌年に三回忌、まる六年が過ぎて七年目に入るときに七回忌の法事を行います。そういった儀式の時には、亡き人のおかげでふだん会う機会のない人など懐かしい人々に再会できます。故人は仏さまとなって、葬儀や法事などの機会を通してみんなを引き合わせ、「いのちのつながり」を実感させてくれます。

 私たちが亡くなった肉親や友達などを思い出すとき、必ずその人の顔が思い出されます。私は母を亡くしましたが、私の亡き母は生きていたときは、社交的でいつもにこにこおしゃべりだったのが思い起こされます。亡き人はこうして、今生きている私の中で仏さまとなって存在しているのです。しかし、私たちの亡き人のイメージというのは、じつは私たちの勝手な都合で脚色されています。だから、自分が大好きだった人は、だいたい笑顔でイメージされてくるのです。お墓参りや法事などで、亡き人を思い出し、語り合うことは大切です。なぜなら、仏となった亡き人と語り合うことで亡き人に学ぶことができるからです。亡き人との関わりの中で、仏さまの教えを受け止め、仏さまの心をたずねることができるのです。

 私にとって大切な人がこの世からいなくなることは悲しいことです。亡き母への思いが歌われている宇多田ヒカルの「道」という歌の歌詞に「私の中にあなたがいる いついかなる時も」とあります。じつは仏教でいう「人は亡くなると仏さまになる」とはこのことなのです。私にとって大切な人が亡くなると、亡くなったその人は、今を生きる私にとって「あなたもいつか必ず、今こうして命終わった私のように、いつかわからないけれど、必ず終わりが来る命を生きているんですよ。限りある命だからこそ、悔いのないように今をしっかり生きることが大切なんですよ。」と、ふだんは自分の都合ばかり考えて、真理に目を向けることをしない私に、必ず死を迎える命を今生きていると教えてくれます。つまり、私を真理に目を向けさせてくれるはたらきである仏さまとなって、いついかなる時でも共にいてくれるのです。だから、時々その人は私の前に現れて、本当のことに目を向けることの大切さを私に思い起こさせてくれるのです。

第23回

2016年12月2日

 十二月になりました。布団のぬくもりが恋しくて、朝、寒さと闘いながら布団から出て着替えるといった人もいるのではないでしょうか。霜が降りた畑を眺めながら登校するのが少し辛くなってくる季節です。

 さて、今日から期末テストの返却が始まるかと思います。テスト結果に期待と不安が入り交じっていることでしょう。思ったより点数が高かったとか、予想以上に低かったなど、それぞれの結果に一喜一憂することかと思います。
私たちはよく、自分の満足のいく結果を出せなかったとき、もっと勉強しておけばよかったと反省します。「後悔先に立たず」という言葉がこれほど以上に身をもって感じることはありません。

 詩人、竹部勝之進の詩に、

  学ぶときは学ぶこと 遊ぶときは遊ぶこと
  食べるときは食べること 死ぬときは死ぬこと

という詩があります。これは、本当に遊べる人は学ぶ時に学べる人という意味です。何故、学ばなければならないのか。その答えは学ぶために学ぶのです。何故、英語を勉強するのか。英語の勉強をするためにするのです。つまり、打ち込むべき時に打ち込むことができることこそが尊いというのです。

 しかし、現実の私達の生活はどうでしょうか。本当に学べない人は、他に刺激を求めます。勉強している最中に、スマホをいじってしまったり、お菓子を食べたり、テレビを見てしまったりといった具合です。もし、あなたが今までの人生、お菓子を食べるために生きてきたのなら、お菓子を食べることが人生の目的となり、それは目的を実践している素晴らしいことになります。しかし、実際はどうでしょう。勉強に飽きたからスマホをいじったり、テレビを見る。勉強に集中できていないから、お菓子を食べてしまうのではないでしょうか。これでは、本当にしなければいけないことから逃げているだけではないでしょうか。つまり、あたりまえのことがあたりまえにできない、打ち込むべきときに打ち込めない私がそこにいるのです。

 肝心なのは真剣に取り組むこと。日々の生活で「学ぶこと」「遊ぶこと」「食べること」それをするために生きてきたんだと胸を張って言える生き方をしてみたいものです。

第22回

2016年11月25日

 まだ十一月だというのに昨日の雪には驚きましたね。冬の寒さに負けることなく、テスト勉強のために夜遅くまで頑張っている人も多いことでしょう。テストに万全の体調で臨めるよう、健康管理にも気をつけてください。

 来週の月曜日は、親鸞聖人の命日です。親鸞聖人の作られた和讃に、

  如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし

という言葉があります。皆さんになじみ深い「恩徳讃」の一節です。

 誰でも、親切にしてあげたのに、その誠意が分かってもらえないと寂しいものです。感謝してくれることを、期待しているわけではなくても、誠意が無視されれば悲しいものです。いっぽうで、私たちは他人の無神経さや、誠意のなさにはよく気がつくのですが、自分の無神経さには気づかず、友達の誠意を無視することが案外多いものです。

 普段、私たちは、自分に都合のいい言葉には誠意を感じるのですが、そうではない場合には誠意を感じない、あるいは逆に腹立たしさを感じる場合すらあります。仮に友達が自分のためにしてくれたことでも、自分の思いに反すると、「ムカつく」「裏切った」などと愚痴を言ってしまいます。甘い言葉の裏に実は愛情がなく、厳しい忠告の背後に愛情があることを見逃すことが多いものです。愛情や、優しさが受けとめられない人生は、愚痴ばかりの寂しい人生になってしまいます。だからこそ、自分自身の生き方を問う必要があるのです。

 ところで、他人の親切に対して、心から感謝するということ、つまり「恩」を知るということには、どういう意味があるのでしょうか。あなたが感謝する時、つまり「ありがとう」と思う時はどんな時でしょうか。もし、他人から何かをしてもらった時に、してもらって当たり前という思いがあれば、ありがたいという気持ちは起きません。そうではなくて、そうしていただけるはずのない自分が、何かをしていただいているという思いが、心からありがたいと感じさせるのです。

 「恩徳讃」から、私たちは私に関わってくるすべての事柄、すべての言葉が、私を生き生きと生かしてくれる材料であることを改めて感じさせられます。そういう心の世界に出会った喜びと感激を、親鸞聖人は「恩徳讃」に込めているのです。

第21回

2016年11月18日

 期末テストが十日後に迫ってきました。二学期を締めくくる大切なテストです。秋の夜長を、気を引き締めて、真剣に勉強に精を出す時間にしてください。

 ところで皆さんは、仏教の授業で「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」という「六道」について学んだことがあることと思います。

 これを私たちの日常に置き換えると、「地獄」とは、テスト勉強が嫌でつらいこと。先生からも親からも勉強しろ勉強しろと言われ、苦しいことはしたくないという気持ちから「テストなんてなければいいのに」と思い通りにならないことが嫌で嫌でたまらなくなり、悲しんだり苦しんだりしている心のことをいいます。「餓鬼」とは、貪り続けることで、勉強しなくてはいけないはずなのに、スマホの操作に心が奪われたり、好きなテレビを見続けたり、漫画を読みふけったりして、本来やるべきことより、自分がしたいという欲に流されていく心のことをいいます。「畜生」とは、先生が配布してくれたテスト対策問題の解き方が分らないからといって、問題を解く努力をせずに、答だけ書き写しておけばいいやという安易で何も考えない心のことです。「修羅」とは、人との争いに勝つこと、思い通りにならないとすぐ腹を立て、「こんな問題を出した先生が悪い」と他人を憎んだり恨んだりする心のことをいいます。「人」とは、自分の思いが叶って満足したかと思うと、次には思いが叶わず苦しみに追い込まれてしまったりと、心が揺れ、ひとときも迷いを離れられない心のことをいいます。「天」とは、自分の求める理想にどっぷりつかってしまう状態のことで、「今回はこの点数がとれたからいいや」と勝手に自己満足している状態のことです。

 皆さんは、この「六道」が何かわかりましたか? 「六道」とは、ふだんの生活の中で、自分中心の心に振り回されている私たちのことです。私たちの心の状態を六つに分けて言い表しているのです。

 二千五百年前、釈尊が誕生し「七歩あゆんだ」といわれるのは、この「六道」という状態を一歩超えたということを表しています。釈尊が生まれてすぐ七歩歩いたというお話の意味は、自分のふだんの生活を謙虚に受けとめ、自分自身をしっかり見つめる必要があるということを教えてくれているのです。

第20回

2016年11月11日

 今週は報恩講がありました。木越先生のお話、今でも心に残っていますか? そして、今、私はどのような思いで高校生活を送っているでしょうか。毎日繰り返される生活は、決して楽しいことばかりではないかもしれません。「退屈だ」とか、「辛い」「しんどい」と感じる時もあることでしょう。逆に、頑張っている自分に気づいて、うれしい気持ちや充実感を心地よく感じることもあるでしょう。そんな日々の生活の中で、「よかった」「ありがとう」と、かかわりのある周りに感謝の気持ちを感じることができれば幸せなのですが、なかなかそうはいきません。

 本願寺八代目門主(もんしゅ)の蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文(おふみ)』中に、

  されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、
  夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり

という言葉があります。これは、「朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きている」ということを言っています。

 私たちは、「無常な生涯」、つまり生きていることが当然ではない日々を生きています。今は、このように朝学校に来て、授業を受けるといった当たり前の生活を日々繰り返しています。しかし、その当たり前の生活さえも実は当たり前ではないのです。様々な「いのち」の支えを受け、生かされているのです。しかも、いつ終わるか分らない「いのち」を生きています。

 それに気付くことができると、「退屈だ」とか、「辛い」「しんどい」と思う時間も、じつは、私にとって大切な時間だとわかり、尊く感じられることでしょう。

 生を受けた者は必ず命終わる時がきます。はかなくて、尊い今を生きているのが私たちなのです。だからこそ、「今」というこの時を大切にしたいものです。

第19回

2016年11月4日

 強歩大会では自分との闘いができましたか?今日は足の筋肉が痛いという人もいることでしょう。

 また、来週には宗教行事の報恩講があります。報恩講とは、親鸞聖人の命日のつどいのことです。命日とは、命の日と書きます。亡き人を偲ぶことを通して、自分がいただいている「いのち」について考える日ということになります。

   野の花の小さないのちにも
  仏はやどる
  朝影とともに来て
   つゝましい営みを与える
  同じように

 これは、『讃歌集』34ページの「いのち」という讃歌の歌詞です。

 「野の花」とは、花屋さんで売っているような華やかで目立つ綺麗な花ではなく、道ばたに咲く名も知らないような花のことを指しています。決して華やかではない野の花に仏の心がやどっており、私の心が野の花から届いている仏の心を受けとめることができた時、一生懸命生きることの尊さを再確認させられます。そして、私は果たして野の花のように、目立たなくとも私なりに精一杯生きているだろうかと問いかけられます。いつも周りの様々な物や人から私の心に届いている仏の心を受けとめる、つまり、信心の大切さが歌われています。二番の歌詞は野の鳥を通して、三番の歌詞は白露を通して、同様に問いかけられます。

 ふだんの私たちは日々の忙しさに追われ、いつの間にか自分中心の考えになり、結果、大切なことをずいぶん見落としています。つまり、大切なことは案外自分の近くにあるのに、それに気づかない生活を送っているのです。歩いているとついつい見過ごしてしまう「野の花」からも、教えられ育てられているのです。有り難いことです。

 日常の様々なちょっとした出会いを通じて、自己中心の生活を送っている私であることを自覚し、報恩講が親鸞聖人の命日を通して教えを聞く、私の報恩講であることを忘れないようにしたいものです。

第18回

2016年10月28日

 私たちには、家族や友だちに対して、喜びや楽しみを与えてあげたい。苦しみや悲しみを取り除いてあげたいといった優しい思いやりの心があります。

 ところが、毎日忙しそうで大変だろうなと思って、気を利かせて家事を手伝ってあげたら、親に「そんなやり方じゃ、やってくれない方が良かった」「あなたのせいで、すぐできるはずだったことが、やり直さなきゃいけなくなって、かえって時間がかかった」などと言われたことはありませんか?自分の家族への優しい思いがうまく伝わらす、感謝してくれると思ってしてあげたのに、逆に文句を言われたりすると、腹が立ったり、悲しくなってしまいますね。

 でも、これは、私がこれだけやってあげているんだから相手が感謝して当然という、自分の都合優先の優しさを相手に押しつけているために生じてしまっている出来事です。そんな時は、少し自分の心を見つめ直してみましょう。すると見えてくる世界があります。

 私が手伝ってあげようと優しい気持ちになれたのはなぜか。それは、忙しそうにしている家族がいたからです。文句を言われたから、自分のやり方の拙さや未熟さが見えてきたという事実がそこにはあります。

 私が人に親切にしてあげ、役に立つことができるのはその人がいてくれるからで、その相手がいなければ私が親切にしてあげたり、お役に立つことは出来ません。つまり、その人と出会うことが出来たから、私はその人のために何かをしてあげることができたのであり、その人に何かをしてあげることを通して、自分が今何をすればいいのかとか、どう工夫すればより相手に喜んでもらえるのかとか考えさせられたり、いろいろなことを感じさせてもらえるわけです。その人のおかげで、自分が教えられ育てられているのです。そのことに目を向ける心の世界を手に入れると、腹が立つことにも、悲しいことにも意味があることが分かってきます。

第17回

2016年10月21日

 皆さんは周りに気を遣いすぎて、自分の本当の顔を隠したまま、仮面をかぶったような生活をしているといったことはありませんか?

 思い切り自分を表現できることは素晴らしいことです。でも、気づかないうちに、周りの誰かに迷惑をかけていたという場合もあります。周りに気を配って、みんなが楽しい思いができるように配慮して生活したいものです。

 そこで、今朝は、「迷惑」という言葉について考えたいと思います。迷惑とは、嫌な目にあって困っている時などの気持ちを表す言葉です。私達が「迷惑だ」と感じる時は、相手の言葉や行動を不愉快に感じる時です。

 ある女の子が、学校で周りの友達に嫌がらせを受け、いじめにあっていました。彼女に「お家の人はこのことを知っているの?」と聞くと、「親には絶対に知られたくない。親には自分の弱みを見せたくないし、こんなことで迷惑をかけたくない。どうせ親に言ってもわかってもらえないし・・・・」と答えました。

 迷惑をかけることはいけない事です。相手に嫌な思いをさせてはいけません。しかし、自分の周りにいる人が苦しんだり、悩んだりしていることを迷惑だと思うでしょうか。私たちは、親や先生に「他人に迷惑をかけてはいけません」と教えられてきました。しかし、実際はどうでしょう。本当のところ、私たちの生活は、じつは「迷惑かけっぱなし」の生活といった方が正しいのです。

 たとえば、ふだん何気なく食べているお肉やお魚だって、彼らは人間に食べられる為に生まれてきたわけではありません。動物からすると、これだって立派な迷惑です。

 私が生まれた瞬間から、今生きているこの瞬間まで、どれだけの「いのち」を傷つけ、どれだけ他人に迷惑をかけてきたでしょう。私というのは「迷惑をかけずにはいられない存在」なのです。わがままを言い合い、迷惑をかけ合い、助け合わなければ生きていけないのが私たちなのです。だからこそ、迷惑をかけ合っていることに気づき、私に関わる全てのものに「ありがとう」と感謝したいものです。

第16回

2016年10月14日

 十月も半ばとなり、朝夕はずいぶん涼しく過ごしやすくなりました。来週末には、一日体験入学で中学生の皆さんが来校します。受験生である中学生の皆さんに負けないように、私達も充実した毎日を送りたいものですね。

 ところで、私たちはふだんの生活の中で、たくさんの言葉に出会っています。友だちや家族、先生たちから直接かけてもらう言葉もあれば、本や歌の歌詞、テレビなどで間接的に出会う言葉もあります。いろんな言葉に出会いますが、その時は面白くても時間が経てば忘れていくのは、その言葉が自分の人生の中で自分自身に深く関わっていないからでしょう。ただ、いっぽうで、出会った言葉から勇気をもらったり、自分をふるい立たせ、自分を支えてくれる「ほんとう」の言葉に出会うことがあるのも事実です。そんな言葉は、自分の人生を共に歩んでくれます。

 親鸞聖人は、自分の人生の方向を決定づけてくれた法然上人のお言葉を、お念仏の心で受け止め、一生涯自分の生きる支えとしましたが、私たちはどうでしょう。果たして、「ほんとう」の言葉に出会っているでしょうか。もしかしたら、授業で耳にする言葉や、本、そしてテレビの中の大好きなタレントさんの言葉の中に、自分の将来に向けての生き方のヒントとなるような、自分の進むべき道を明らかにしてくれるような、かけがえのない「教え」が込められているかもしれません。

 ある時、何気なく耳にした言葉でも、自分の心を動かすような時があります。その時の、私の心を動かしてくれた言葉は、私にとっての「ほんとう」の言葉です。めぐり会った言葉を「教え」として受け止め、自分自身の今をしっかり見つめて、次の私はどうあれば良いのかを考えて生活してゆける私になりたいものです。

第15回

2016年10月7日

 昨日は運動会でした。競技に応援にと、みんなのエネルギーがぶつかり合って、熱い戦いに湧いた、楽しい一日でしたね。ハッスルし過ぎて、体のあちこちが痛いという人もいることでしょう。   

 ところで、「嵐」の新曲の歌詞に、こんな言葉があります。

   今なら分かるさ 優しさに導かれて 背中押されてた
   目の前にそびえ立つ壁も いつしか越えていた
   数え切れないほど流した涙や 諦めだって
   そのすべてをくぐり抜けて 今ここで息をしている
   迷わない人などいないよ どこへ立っても終わりはない
   だから今日も ここで挑み続けるだけ

 私たちは、それぞれがみんな何らかの苦しみを抱えて生きています。では、すべての存在が抱えている苦しみとは、どのようなものでしょうか。野生の動物なら、思うように餌がとれなくて空腹に苦しむことがあるでしょう。人間なら、自分の思うように人間関係や物事が進まなくて悩むことがあるでしょう。つまり、苦しみの根元は、何でも自分の都合で考えてしまう自分自身にあるといえます。

 そんな時は、自分のことしか考える余裕が無くて、周りから届いている優しさや背中を押してくれている人の心に気づけません。
でも、壁を乗り越えることができた時、自分を振り返ると、自分をいつも見守り続けてくれた人がいたことに気づき、そんな中で生活できていたことをありがたく感じるものです。

 釈尊は「人生は苦である」つまり、生きるということは、苦しみに満ちていると言われました。しかし、苦しみに満ちているこの世に、現に私たちはいのちを授かりました。「思いどおりにならない人生をいかに生きて行くべきか」ということを最初から課題として与えられているようなものです。しかし、「思いどおりにならない人生」だからこそ、悩んだり、苦しんだりすることを通して、自分に勇気を与える教え、それは言葉として出会ったり、体験の中で感じ取ったり、自分が何かを成し遂げた時にわかったりするわけですが、日常生活の中にいくらでも転がっている教えを見逃さないで欲しいと思います。そのためにも、なにかうまくいかないトラブルなど、いやな気持ちになることがあっても、学校の中では友だちや先生とのかかわりを大切にしてください。

第14回

2016年9月23日

 合唱コンクールが終わり、皆さんの心にクラスのみんなと心を一つにして歌った満足感が残っていることと思います。行事を通して、友達や先生との距離がまたさらに近くなって、様々な思いが駆け巡っていることでしょう。

 さて、人間関係が希薄な時より、関係が深くなると、逆に、悩みが出てくることがあります。今朝は、その「悩み」について考えたいと思います。

 悩みとは、どんな時に生じるのかというと、例えば勉強やクラブ活動、友達関係や病気にかかったりなど、物事や人間関係が、自分の思うようにうまく行かない時に生じます。

 だから、悩んでいる時というのは、悲しく、苦しく、憂鬱で、嫌な気持ちになります。できればあまりそういうことになりたくないのが正直な気持ちです。私たちは、自分の都合が悪くなれば逃げてしまう、心の弱い生き物なのです。

 しかし、悩みが一時的に無くなった気がする時もあります。それは自分の思うように物事がうまくいっている時です。でも、そんな状況がずっと続くなんてことはめったにありません。また思うようにいかなくなり、悩むことになります。思えば、私たちの人生は思い通りにいかないことの連続、つまり、悩みとは一生私の隣にいるといっても良いでしょう。親鸞聖人は、そんな私たち人間を「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」という言葉で表現しています。

 人との関係というのは、必ずしも思うようにはいきません。育ってきた環境も違えば、考え方も違うので当然のことです。時には自分が傷つくこともあれば、相手を傷つけることもあります。それが私たちの関係なのです。だとしたら、悩むことから逃れることばかり考えるより、悩みを通して得られるものを大切にした方が幸せです。悩んで気づいたことを大切にしてみましょう。きっと、悩むことにも、私にとって大切な教えが潜んでいることに気づくはずです。

第13回

2016年9月16日

 皆さんが校長先生のお話で時々耳にしたり、正面玄関の廊下付近で目にすることができる言葉に、「和顔愛語(わげんあいご)、先意承問(せんいじょうもん)」という言葉があります。

 この言葉について、今、新潟県でお坊さんをしておられる、かつて本校の先生だった藤島直さんが、お寺の通信の中で、こんなふうに述べています。

 「和顔愛語」は、柔和な表情と慈愛に満ちた言葉という意味。いうなれば、愛と平和です。「先意承問」は、まず相手の意(こころ)をくみとり、問いをうけとめるという意味。これは対話だといえます。対話は、愛と平和を伴うのです。険しい顔と憎しみを込めた言葉で向かっては、対話など成立しないのです。仮に憎しみに満ちた相手と対話したところで、その人間を愛し平和でいるのは至難の業です。

 親鸞聖人は、「和顔愛語、先意承問」というこの言葉を、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という著作の中で、「至心(ししん)」という仏の心を理解する際に引用されています。「至心」という仏の心とは、うそ偽りのない、真実の心という意味です。それは、私たち人間にはないと言い切っています。だから、愛も平和も対話も、仏において可能なことであって、人間には不可能なことです。なぜなら、人間は平和を求めながら差別して戦い、愛しつつも怒り憎む悲しい存在だからです。私たち人間は、その悲しみが自覚されることによって、仏の真実の心に触れ、平和や愛や対話の尊さを、仏の願いとしてうけとめるのです。

 さて、私たちの教室にかけられている額の中の言葉にも「人と生まれた悲しみを知らないものは」という言葉があります。私が私に悲しみを感じる時こそが、本当の自分に気づいて、どう生きるべきか、まじめに考えることができる時なのかもしれません。

第12回

2016年9月9日

 来週の金曜日から就職試験が始まります。自己推薦形式の入試がすでに始まっている人を含め、進学希望者にとっても、これからがとても重要な時期になってきます。三年生の皆さんにとっては進路を決定する大事な二学期です。試験本番に失敗しないように、面接練習や日々の学習などに取り組んできたことでしょう。努力した成果が問われるのが試験当日です。

 そこで、今日は「努力」という言葉について考えたいと思います。
「努力」というのは本来「自分のやるべきこと」という意味なのにも関わらず、いつしかそれに見返りを求めるようになってはいないでしょうか。それは、努力したのに良い結果が得られなかった時、「私はこんなに頑張ったのに、どうしてこんな思いをしなければならないのか。何か我慢して時間をかけた分、損した。」と、努力した報いを受けないことに不満を感じ、自分を省みない生き方です。

 ところで、努力して良い結果が得られなかったら、努力したことは果たして損なのでしょうか。万全の準備をして臨んでも、その日、急に体調を崩してしまうかもしれません。また、何らかのトラブルに巻き込まれ受験できないことが起こるかもしれません。

 つまり、良い結果がでるのは、私のした努力に、プラス良い結果が得られる縁が整ったからに過ぎないのです。悪い結果がでたとしても、それは縁の問題だから、自分ができる精一杯のことをやり遂げることが大事なのです。私が努力したという事実が元となって、それに様々な縁が整うことで、結果が出てくる。それが真実です。努力して損をしたと言わなくていい、そんな生き方をしていきたいものです。

第11回

2016年9月2日

 来週は、一年生が阿南少年自然の家で一泊二日の移動教室。二年生は京都東本願寺での1泊2日の研修となります。それぞれの体験を通して、肌で感じることを大切にして欲しいと思います。

 ところで、いつもと違って、長い時間一緒に集団生活をしていると、周りの人の言動にイライラしてしまうことがあるものです。

 仏教説話にこんなお話があります。

 人々の前に大きな皿があり、そこに山のようなご馳走が盛ってありました。しかし、その皿の前に、「食べても良いが、手づかみで食べてはいけない。この箸を使って食べるように。」と書いてありました。

 置いてあった箸は、約1メートルほどのとても長い長さの重い箸でした。人々はその箸でご馳走に手を延ばし、食べ物を口に入れようとしましたが、箸が長すぎて、食べ物を箸の先でつかんでも、自分の口から遠すぎて、つかんだ食べ物を自分の口に入れることができません。ならば箸の下のほうを持ってと試みても、箸が重すぎて、箸を満足に使えず、今度は食べ物をうまくつかめません。結局、目の前に山のようなご馳走があるのに、それらを口に入れることができません。

 人々が泣き叫んでいると、ある一人の老人が何事かを思いつき、箸で食べ物をつかんだら、自分ではなく、目の前の人の口に入れたのでした。食べさせてもらった人は喜んで、その人も箸で食べ物をつかみ、自分の口ではなく、目の前の他の人の口に入れてあげました。自分ばかりが食べようとしている時には口に入らなかった食べ物が、他人に食べさせることによって、自分の口にも入ったのです。

 他人を思いやることが、結局は自分に戻ってくるというお話です。

 自分の都合を優先していると思いどおりにならないことにイライラして苦しみを味わうことになります。しかし、相手を思いやることで、自分も他人から思われていることに気づき、うれしくなることがあります。人のために何かをすることの大切さと、そのことで味わえる幸せを感じる素晴らしい移動教室や研修ができるとよいですね。

第10回

2016年8月26日

 夏休みが終わり、昨日は始業式、そして、今日からは授業再開です。皆さん、夏休みを有意義に過ごせましたか?

 一学期は年度の最初の学期で、女子高祭を始め行事が数多くあり、忙しかったという印象が強く残っていることと思いますが、二学期は期間も長く、落ち着いた生活を送ることができる反面、三年生にとっては、進路に向けての本番を迎える学期でもあります。

 そんな皆さんに、僧侶で作家でもある、瀬戸内寂聴さんの『愛の倫理』という本の中の言葉を紹介しましょう。

「おしゃれの女は、掃除が下手と見て、だいたいまちがいない」

 どういう意味かというと、瀬戸内さんは掃除という表現をされていますが、おしゃれとは外面的なものであるから、おしゃれ好きな人は、内面的なところに意識が向かない、ということのようです。

 そして、おしゃれとは外見、つまり、自分のことしか考えないということ。要するにおしゃれ好きの人は自分にばかり関心があり、周りに意識が向いていないということです。つまり、自分が周囲との関係性の中に存在し、周りに支えられていることを忘れて、自分勝手に自分のやりたいことだけをやって、周りへの気配りを忘れがちの生活に落ちいってしまっているということを指摘してくれているようです。自分の力で何でもできると思っている人は、周りから支えられているから、安心して自分の思い通りの力を発揮できているということに気づかないものです。

 日々の生活で自分のことしか考えない人は、家庭生活や学校生活、地域の団体での活動などが、多くの人の支えによって成り立っていることに気づかないでいることが多いものです。

 もちろん、自分を磨くおしゃれも大切です。周りの人に好感を持たれるような身だしなみと言動が、平和で楽しい日々を作り上げます。そんな中、学校生活の一日の終わりに、「おかげさまで今私はここにいることができます、ありがとう。」と感謝の気持ちを込めた掃除ができると、素敵だとは思いませんか?

第9回

2016年7月22日

 今日で一学期の授業が終わります。月曜日に終業式を終えると、もう夏休みです。夏休みは、本来は暑い夏真っ盛りになったこれからの約一ヶ月を、学校の決められた日常から解放されることで、自分に一番ふさわしい形で休養し、体や心の疲れを取り除くためにあります。

 好きなことをやりながら、のんびりと過ごせることは、忙しさに追いまくられて余裕をなくして疲れた心には、とてもよい栄養になります。花が咲き終わった植物に、また来年立派な花を咲かせてもらうために、肥料をやって手入れをするのと同じようなものです。

 また、夏休みは自由な時間の中で、時間に縛られた日常とは違う活動をするためにも使える貴重な期間です。じっくり時間をかけて、自分を向上させるために、勉強やクラブ活動に費やしたり、ボランティア活動や、校外の団体が主催する様々な活動に参加して、自分を磨くこともできます。

 この夏休みにも、さっそく学習合宿や、特別指導といった形での勉強に参加して頑張ったり、合宿や遠征が計画されたクラブ活動に燃える自分を想像して、今からわくわくしている人もいることでしょう。ボランティア活動の申し込みをした人は、老人福祉施設でのお年寄りとのふれあいや児童との交流などの中で、大切な何かを体感できるはずです。

 さらに、家族とのふれあいの時間を作れる時でもあります。家族と一緒に買い物に行ったり、旅行に行ったりしたいと考えている人もいることでしょう。

 いずれにしても、様々な活動の中で体験することには、自分にとってとても大切なものが心に残ることでしょう。それは、自分にとってとても楽しかったりうれしかったり、充実感に満ちたものになる場合もあるし、逆に、つらかったり苦しかったり悲しかったりといったものになってしまって、後悔が残ってしまうこともあるでしょう。

 でもよく考えてみてください。それらすべては、じつは自分にとってとても貴重なものなのです。なぜなら、私たちは喜びにも悲しみにもいつも育ててもらっているからです。「出会うすべての人や事柄から自分は育ててもらっているということに目覚めて、そんな自分であることを喜べる人になってほしい」という仏様の教えを、時々思い出したいものです。

第8回

2016年7月20日

 女子高祭の片付けが終わり、教室内がきれいに整っていることと思います。

 ところで、本校では一日の終わりに掃除の時間があります。一日の学校生活をさせてくれた校舎へ、感謝の気持ちを込めて、学校中の皆さんが、その時間になると一緒に掃除に取り組み、教室や廊下などを綺麗にします。来校したお客さんや保護者の方が、「校舎がきれいですね」と言って下さるのは、建物が新しいだけでなく、日頃から皆さんが丁寧に掃除をしている賜物でしょう。

 しかし、「掃除をしっかりしましょう」と言われても、慣れてくると、ついいい加減になってしまいがちです。

 昔、インドにチューダパンタカという人がいました。釈尊の弟子となり、懸命に勉強をしていたのですが、短い簡単な言葉すら覚えられない愚か者でした。 

 ある日、そんな自分を嘆いて祇園精舎の門に立ちすくんでいると、釈尊が通りかかり、「自分の愚かさを知る者こそ、智慧ある人です」と語りかけ、チューダパンタカに一本のほうきを渡して、「これで毎日、『塵を払おう、垢を除こう』と唱えて掃除をしなさい」と言われました。それから毎日、その言葉を唱えながら掃除をしたチューダパンタカは、ついにさとりをひらいた、というお話があります。

 このお話を聞いてどう思いましたか?お話に出てくる「塵や垢」というのはいわゆる教室に落ちているゴミなどです。しかし、教室のゴミはいくら掃除をしても、次の日になると、またたくさん出てきます。今日掃除をすれば明日はゴミが出ないということはありません。

 私達は、注意されたときは、「しっかりやらなくては」と反省しますが、「明日またゴミが出てくるんだし、適当にやっておいたっていいじゃん」などという愚かな心がすぐに涌きおこってきます。自分の心の塵や垢も次々と湧き起こるのです。だからこそ、心の塵や垢まみれにならないように、自分の心の掃除が必要なのですが、できているでしょうか。

 掃除をすることはその場所を綺麗にすることですが、愚かな自分に気づくきっかけにもなります。どんな気持ちで掃除をしているか、今一度自分を振り返ってみてください。

第7回

2016年7月1日

 期末テストが終わり、女子高祭に向けての準備が進んでいることと思います。

 ところで、女子高祭を行うことにはどんな意味があるのか、皆さんは考えたことがありますか?

 みんなで一つのものを作り上げること。それが女子高祭を行う一つの大切な意味です。例えば、クラスやクラブの展示、屋台などの準備をするとき、役割分担をします。そして、それぞれの役割の中で出来上がったものを、組み合わせて完成させていきます。そのことは、クラスやクラブの仲間との心のつながりを、より深める絶好の機会です。

 ところが、みんなで始めた作業も、熱心に気持ちを集中して、一生懸命取り組める人と、少しやっては休憩してと、休み休みでないと集中できない人、他人任せにしたり、私には責任がないという態度をとる人など、様々な人がでてきて作業が思うように進まないことがあります。そんな仲間を見て、真剣に取り組んでいるあなたは何を思うでしょう。

 「ああいう人がいると、テンションが下がって、やる気がしなくなっちゃうんだよ」「どうせあの人に言っても頼りにならないから、言っても無駄なんだよな」と、結局、自分ひとりで作業を抱え込んでしまうことになりがちです。そして、忙しさのあまり、イライラが募ってしまいます。

 しかし、これであなたは本当に満足がいくのでしょうか。「私が全部やるからいい」と突っ走ると、やがてそれが重荷になってきます。それぞれ役割は違っていても、目的は同じはずです。だから、もっと人を頼ってもよいのではないでしょうか。普段頼みにくい人にも、「ちょっとお願いしていい?」と言ってみてはどうでしょう。遠慮して、つながりを欠いてしまうのは悲しいことです。

 女子高祭をよりよいものにするには一人ひとりが主役になり、「私の女子高祭」にしていかなければなりません。それが、みんなで作り上げることにつながるのです。

 一期一会という言葉があるように、今年の女子高祭は一回限りです。今年の女子高祭のテーマ「全力少女」のごとく、時間の許す限り、たとえ大変な思いをしても、準備に全力を出し切って、悔いの残らない充実感を喜べる、最高の女子高祭をみんなで作り上げたいものです。

第6回

2016年6月17日

 梅雨に入り、じっとりとした蒸し暑い日が続いています。健康管理に気をつけて、来週の期末テストを乗り切りたいものです。

 ところで、テストというのは、日頃の勉強の成果を発揮する大事な機会です。したがってふだんの学習と、この週末の過ごし方はとても大切になってきます。ところが、反面、テストなんてなければどれだけ楽かと思ってしまうこともあることでしょう。また、勉強に関係のないことに興味を持ってテスト勉強そっちのけになってしまったり、勉強しても集中できずダラダラしたり、テスト直前になって、気持ちの追い込まれるままに、慌てて勉強するといったことになりがちです。そして、不十分な状態でテストに臨むことになって後悔することになるのです。そうならないように、常日頃から、その日のうちに復習したり、次のところを予習したりして、実力をつけておけばよいのですが、なかなか自分の思い通りには、上手く事が運びません。

 勉強する時間についても同じことがいえます。朝の登校後の始業前の時間、授業の間の休み時間、昼休み、放課後、そして、家に帰ってからと、時間はいくらでもあります。勉強時間がたくさんあったらいいという問題ではなく、要はその時間をどう使うかが大事なのです。その為にも、今自分が何をすべきなのかに気を配ることが大切なのではないでしょうか。

 今できることを後回しにすると後悔します。仏さまの教えでは、明日のことを今日することが大事だなんて言葉もあります。テスト前になると、勉強の計画を立てて、一生懸命取り組みます。しかし、勉強の途中で、見たいテレビ番組がある、スマホをチェックしなきゃなどの誘惑に負け、勉強がそっちのけになってしまうということはありませんか?そして、しまいには、明日は土曜日、あさっては日曜日で休みだから、今日はもういいかと、ついつい楽な方に流されてはいないでしょうか。今、やらなければならないことをどんどん後回しにして後悔するより、今自分が何をやらなければならないのかを自覚し、物事に優先順位をつけていく。そんな生活を送りたいものです。

第5回

2016年6月3日

 木々の緑が光を浴びて、鮮やかに夏を感じさせてくれるようになりました。私たちを取り囲む木々や草花が夏の陽差しにまぶしく輝く季節です。夏は服装だけでなく、気持ちも開放的になり、学校の中が活気にあふれています。

 そして、来週はクラスマッチ。勝つ試合もあれば、負ける試合もあります。勝ち続けるのは優勝チームのみです。各種目に臨む皆さんの熱気で、試合会場は大変な盛り上がりを見せることでしょう。そんなクラスマッチは、クラス全員が一丸となって、友情を深め合い、同時に、友人の違った一面を知る絶好の機会です。

 しかし、運動が得意な人にしてみれば、楽しいクラスマッチでも、運動が苦手な人にしてみれば、大変な試練かもしれません。運動が苦手な人は、私のミスで負けるということにならないようにしなければとか、私はあまり役に立てそうにないし、チームの足を引っ張りそうで困ったなと思っているかもしれません。運動が得意な人は、やる以上勝ちたいと思って、張り切っていることでしょう。でも、運動が苦手な人だって、心の中では、もっと運動ができたらいいのにと思っているかもしれません。運動が得意な人もそうでない人も、心の中には、皆で一緒に勝った喜びを分かち合いたいという思いを持っているのではないでしょうか。だとしたら、あの人がいるからチームは負けるかもとか、このチームではどうせ勝てないからと思ってしまうようだと、せっかくのクラスマッチが楽しめなくなってしまいます。勝ちたいと思う気持ちは皆一緒です。しかし、結果を求めすぎて、それ以上の、もっと大切なものを忘れてはいけないと思います。クラスマッチを通じて、頑張る自分と一緒に戦っている友達の思いなど、新たな友達の一面に出会って、勝って共に喜び、負けて共に悔しがるといった感動の共有を大切にしてください。

第4回

2016年5月27日

 皆さんは相手に自分の気持ちを伝える時、どのようにしていますか?

 直接話す。電話で話す。メモや手紙に書いて渡す。スマホや携帯電話を使ってメッセージのやりとりをする。伝える手段が多様で便利になったにも関わらず、自分の本当の気持ちが上手く伝わらなかったり、気持ちを理解してもらえず、誤解されたり、気まずい思いをしたりといった経験があるのではないでしょうか。

 何故、自分の気持ちを上手く伝えられないのか。原因は私達の日々の生活の中にあるのかもしれません。

 たとえば、友達とおしゃべりをしていて、楽しかったなぁと満足感に満たされた時は、自分ばかり喋っていたということが多いのではありませんか?反対に、他人の話を聞かされるばかりで、自分からあまり話せなかった時は、何か物足りなかったなぁと感じるものです。おしゃべりが苦手な人は聞いている方が楽かもしれませんが、それでも自分の気持ちを伝えたい時には話したくなるものです。必要に応じて自分の気持ちを伝えたい。それが自然です。

 自分の気持ちを上手く伝えたい。でも、上手く伝えられない。それは、自分が相手の気持ちを理解していないか、相手が話を聞こうという気持ちになっていないか、つまり、相互理解が不足して、気持ちが通じていないことに原因があります。

 皆さんのふだんの生活の中でも、家族と、あるいは友達との会話中、テレビを観ながらとか、スマホをいじりながらなど、~しながらといった状況で顔を背けてしまって、声は聞こえていても話を聞いてはいないといったことはないでしょうか。そういう態度で話を聞くのは、「私はあなたの話には興味がないよ」という意思表示をしているのと同じです。話を聞くというのは、相手の目を見てその言葉を受けとめるという事です。そのような姿勢を欠いた会話では心は通じ合わないものです。まず、自分から相手が気持ちを伝えやすいような聞き方につとめることで、相手と相互理解のできる関係を心がけたいものです。

第3回

2016年5月13日

 今週は釈尊降誕会でした。行事の美しさを通して、釈尊の誕生ということが、それを待ち望んだ人たちにとって喜びであり、それが花に囲まれた美しさと、空から降り注いだ甘い味の雨、行事では誕生した釈尊の像に注ぐ甘茶として表現されていました。

 そのことは、私の誕生も周囲に待ち望まれて喜ばれての誕生だったということを意味しています。生まれた私は、その瞬間から自分一人の力だけで生きてきたわけではありません。生まれた瞬間に抱き取られて、みんなに喜ばれて、そして、私のために自分の時間を割いて私を育ててくれた人がいた。だからこそ、今の私がいるわけです。

 そんな誕生をした私も、そんなことは忘れて、周りの人に反抗したり、自分の思いを叶えるためにあくせくしているというのが現実です。だから、あるがままの私でいると、相手がどう思うか心配して、気を遣いすぎて疲れることもあります。本当は自然体で生きるのが、自分にとっては楽なはずなのですが、あるがままというのはなかなか難しく、自分の本当の姿は出しにくいものです。

 自分をさらけ出し、それを相手が受け止めてくれなかったら、傷ついてしまいます。だから、自分を守るために仮面をかぶったような生活をして、学校ではニコニコと笑って過ごし、家に帰って疲れがどっと出てしまい、気持ちが落ち込むということもあるでしょう。

 ある歌手が、参加者がとても緊張していた場面で、「あなたはどうして音楽を始めたのですか」と質問されたことがあるそうです。その時、「女の子にモテるためだよ」と答えて、みんなの笑いを誘い、その場が一気に和んだという話があります。

 
私達は、人によくみられたい、恰好をつけたいと自分を隠したり、見栄を張ったりします。しかし、自分に都合の悪いことを隠すと、相手も同じように隠し、深い人間関係は生まれません。自分らしく生きることは難しいものです。しかし、少しでも自分にかぶせた仮面を外し、あるがまま、そのままの私であることによって、友達との関係が親密になれるとよいですね。

第2回

2016年5月6日

 全校の皆さん、おはようございます。来週、釈尊降誕会があります。釈尊降誕会は、仏教の教えに最初に目覚めた釈尊の誕生を祝うとともに、誕生伝説を通して、私が今こうして人として誕生し、生きていることの意味を問う行事です。

 釈尊が生まれた時、周りの木々や草花はすべて一度に咲きそろったといわれています。このことから、釈尊降誕会は「花まつり」ともいわれますが、本校でも、花で飾られた美しい花御堂の中に、天と地を指さして立つ釈尊の誕生像を安置してお祝いします。

 花を飾るというのは、命をいただいたということの尊さを喜びとしてあらわしています。だから、本校でも皆さんが持ち寄る花で花御堂を美しく飾ります。

 しかし、飾った花はいずれは枯れてしまいます。花は根から水や栄養を吸い上げて生きているので、根を失った花は枯れていくしかないのです。せっかく美しく咲いたのに、枯れてゆくなんて悲しいことです。

 ところが、私たち人間も同じです。一生懸命生きていても、その人生の最後には必ず死が訪れます。そのような一生に何の意味があるのか、考えたことはありますか?

 花が花として咲くためには、その根からたくさんの水や栄養を吸い上げて、それをある一瞬に花として咲かせます。人間の一生も、このようなものなのかもしれません。では、人間にとっての水や栄養とは何なのでしょうか。

 人間にとって水や栄養に当たるもの、それは食べ物だと答える人が多いことでしょう。でも、私たちが人間だからこそ大切なものがあります。それは「教え」です。「教え」と聞くと何か難しいように感じますが、「教え」は誰かの生き様、言葉、その人の笑顔や悲しみ、また自分に与えられる様々な状況すべてに宿っています。それに私が気づいて「教え」を受け止めることができるかどうかの問題です。

 仏教では、先人たちが釈尊の生き様や言葉を、「教え」として今に伝えていますが、釈尊降誕会の感話発表からも「教え」は私たちに届けられています。感話発表者の方々が、自分の生活やその中で感じた思いの一部を私たちに話してくれるその内容は、それを聞いた私たちが人間として花開くための大切な栄養となります。

 大自然では、ひとひらの花びらが落ちれば、その花びらは腐り、土となって根に吸収され、また新たに花が咲くための栄養分となります。今、私たちに求められているのは、「教え」を受け止めて、謙虚に聞ける「根」を持つことです。自分らしく咲くために、私たちは「根」を持たねばならない。つまり、「教え」を受け止める「心」を持たねばならないのです。

第1回

2016年4月15日

 全校の皆さん、おはようございます。今年は桜の季節まっただ中で、始業式、入学式を迎えることができました。二年生には後輩ができ、三年生は最高学年になりました。新たな決意で頑張れていますか?

 一年生の皆さんは、入学してまだ、およそ一週間と少し過ぎたところです。不安な反面、楽しみも沢山あるかと思いますが、どのような思いで高校生活を送っているでしょうか。決して楽しいばかりの毎日ではないかもしれません。緊張して疲れが出て、辛いこともあるでしょう。でもそういった時間のすべてが、もしかしたらあなたにとって、とても大切な時間かもしれません。

 今朝から、毎週金曜日のこの時間、朝の法話をお送りします。瞑想の姿勢の中で、心を落ち着けて、聞こえてくる法話の言葉に耳を傾けてみて下さい。

 私たちは、日々の生活の中で、多くの出会いを経験しています。仲良しの友達とも、今日は今日で新たな出会いをしています。

 私たちの周りには、様々な色を持った人たちがいて、私を取り巻いています。クラスやクラブなど、その人数に応じて、人数分の色ともいえる個性が存在しています。しかも、それは多種多様です。強烈な光を放つ色を持った人もいれば、薄く見えづらい色を持った人もいます。そんないろんな色の人との出会いや交流の中で、笑ったり、泣いたり、喜んだり、悲しんだり、怒ったりといった様々な感情が、自分の中に湧いてきます。でも、そのことで、周りの友達との絆が生まれ、その人と出会えてよかったという感情が芽生えてきます。そうやって、私たちは周りの人との出会いによって、いつも育てられているのです。

 この三月に卒業した三年生の担任だったある先生が、「生徒の成長は教員の成長にもつながっている。私自身、生徒によって導かれ、成長させてもらったと思う」と言っていましたが、そうやって成長できている私だということに気づいて、そのことを喜べるって、すてきなことだとは思いませんか?

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